るというものであった。お隅は凜《りん》とした犯しがたいようなところのある人で、うっかりすると一切女房任せな多吉の方がかえって女房であり、むしろお隅はこの家の亭主である。
「お国から、お便《たよ》りがございましたか。」
「ええ、皆無事で暮らしてるようです。こちらへも御厄介《ごやっかい》になったろうッて、吾家《うち》のものからよろしくと言って来ました。」
「さぞ、奥さんも御心配なすって――」
「お隅さん、あなたの前ですが、国からの便りと言うといつでも娘が代筆です。あれも手はよく書きますからね。わたしの家内はまた、自分で手紙を書いたことがありませんよ。」
こんな話も旅らしい。お隅の調子がいかにもさっぱりとしているので、半蔵は男とでも対《むか》い合ったように、継母から来た手紙のことをそこへ言い出して、彼の酒をとがめてよこしたと言って見せる。彼が賢い継母を憚《はばか》って来たことは幼年時代からで、「お母《っか》さんほどこわいものはない」と思う心を人にも話したことがあるほどだが、成人して家督を継ぎ、旧宿場や街道の世話をするようになってからは、その継母にすら隠れて飲むことはやめられなかったと白状する。
「でも、青山さん。お酒ぐらい飲まなくて、やりきれるものですかね。」
お隅はお隅らしいことを言った。
松の内のことで、このかみさんも改まった顔つきではいるが、さすがに気のゆるみを見せながら、平素めったに半蔵にはしない自分の女友だちのうわさなぞをも語り聞かせる。お寅《とら》と言って清元《きよもと》お葉《よう》の高弟にあたり、たぐいまれな美音の持ち主で、柳橋《やなぎばし》辺の芸者衆に歌沢《うたざわ》を教えているという。放縦ではあるが、おもしろい女で、かみさんとは正反対な性格でいながら、しかも一番仲よしだともいう。その人の芸人|肌《はだ》と来たら、米櫃《こめびつ》に米がなくなっても、やわらか物は着通し、かりん胴の大切な三味線《しゃみせん》を質に入れて置いて、貸本屋の持って来る草双紙《くさぞうし》を読みながら畳の上に寝ころんでいるという底の抜け方とか。お隅は女の書く手紙というものをその女友だちのうわさに結びつけて、お寅もやはり手紙はむつかしいものと思い込んでいた女の一人であると半蔵に話した。何も、型のように、「一筆しめしあげ参らせ候《そろ》」から書きはじめなくとも、談話《はなし》をする
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