を海の外に費やされた。外国交渉の不結果、随員の不和、言語の困難――これを一行総員百七名からの従者留学生を挙《あ》げて国を離れたことに思い比べ、品川の沖には花火まで揚げて見送るもののあった出発当時の花やかさに思い比べると、おそらく旅の末はさびしく、しかも苦《にが》い経験であったろう。たとい大使らの欧米訪問が、近代国家の形態を視察することに役立ち、諸外国に対する新政府の位置を強固にすることに役立ち、率先奮励して開明の域に突進する海外留学の気象を誘導することにも役立ったとしても、その長い月日の間、岩倉、大久保、木戸らのごとき柱石たる人々が廃藩置県直後のこの国を留守にしたことは、容易ならぬ結果を招いた。郡県の政治は多くの人民の期待にそむき、高松、敦賀《つるが》、大分《おおいた》、名東《みょうとう》、北条《ほうじょう》、その他|福岡《ふくおか》、鳥取《とっとり》、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起《ほうき》して、斬罪《ざんざい》、絞首、懲役等の刑に処せられた不幸なものが万をもって数うるほどの驚くべき多数に上ったのも、それらは皆大使一行が留守中にあらわれて来た現象であった。のみならず、時局の不安に刺激され、大使らの留守中を好機として、武力による改革を企つるものが生まれた。
 いったい、薩長土《さっちょうと》三藩が朝廷に献じた兵は皆、東北戦争当時の輝かしい戦功の兵である。彼らが位置よりすれば、それらの兵をもって朝廷の基礎を固め、廃藩を断行し、長く徳川氏の旗本八万騎のごときものとなって、すこぶる優待さるるもののように考えた者が多かったとのことである。高知藩の谷干城《たにたてき》のような正直な人はそのことを言って、飛鳥尽きて良弓収まるのたとえを引き、彼ら戦功の兵も少々|厄介視《やっかいし》せらるる姿になって行ったと評した。当時軍隊統御の困難は後世から想像も及ばないほどで、時事を慨し、種々《さまざま》な議論を起こし、陸軍省に迫り、山県近衛都督《やまがたこのえととく》ですらそのためにしばしば辞職を申しいで、後には山県もその職を辞して西郷隆盛が都督になったほどであったとか。近衛兵の年限も定まって一般徴兵の制による事と決してからは、長州以外の二藩の兵は非常に不快の念を抱《いだ》いた。ことに徴兵主義に最も不満なものは桐野利秋《きりのとしあき》であったという。西の勝利者、ないし征服者の不平
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