た。なお、和算と洋算とを学校に併《あわ》せ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻《しおじり》、下諏訪《しもすわ》から追分《おいわけ》、軽井沢《かるいざわ》へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠《うすいとうげ》を下った。
半蔵が多くの望みをかけてこの旅に出たころは、あだかも前年十月に全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰《ぼしん》以来の政府内部に分裂の行なわれた後に当たる。場合によっては武力に訴えても朝鮮問題を解決しようとする西郷隆盛《さいごうたかもり》ら、欧米の大に屈して朝鮮の小を討《う》とうとするのは何事ぞとする岩倉大使および大久保利通《おおくぼとしみち》らの帰朝者仲間、かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の運動に進み、共同の敵たる慶喜《よしのぶ》を倒し、新国家建設の大業に向かった人たちも、六年の後にはやかましい征韓論《せいかんろん》をめぐって、互いにその正反対をかつての朋友《ほうゆう》に見いだしたのであった。
明治御一新の理想と現実――この二つのものの複雑微妙な展《ひら》きは決してそう順調に成し就《と》げられて行ったものではなかった。その理想のみを見て現実を見ないものの多くはつまずいた。その現実のみを見て理想を見ないものの多くもまたつまずいた。ともあれ、千八百六十六年以来諸外国政府の代表者と日本国委員との間に取り結ばれた条約の改正も、朝鮮問題も、共にこの国発展の途上に横たわる難関であったことは争われない。岩倉大使が欧米歴訪の目的は、朝廷御新政以来の最初の使節として諸外国との修好にあったらしく、条約改正のことはその期するところでなかったとも言わるる。むしろ大使はその問題に触れないことを約して国を出発せられたともいう。その方針が遠い旅の途中で変更せられなかったら、この国のものはもっと早く大使一行の帰朝を迎え得たであろう。明治五年の五月には、大使らは条約改正の日本全権ででもあって、ついに前後三年にまたがる月日
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