で家のものの手でそれをする。今の寺院の境内はもと青山家の寄付にかかる土地であるから、神葬の儀式でも行なう必要のあるおりは当分寺の広庭を借り用いる。まったく神仏を混淆《こんこう》してしまったような、いかがわしい仏像なぞの家にあるものはこの際焼き捨てる――この半蔵の考えが伊之助を驚かした。しかし、伊之助は平素の慎み深さにも似ず、これは自分らの子供たちを教育する上からもゆるがせにすべき問題でないと言い、これまで親しいものの死後をあまり人任せにし過ぎたと言い、旧宿役人時代から彼は彼なりに在家《ざいけ》と寺方との関係を考えて来たとも言って、もし旧本陣でこの事を断行するなら、伏見屋でもこれを機会に祭葬の礼を改めて、古式に復したいと同意した。
 半蔵は言って見た。
「やっぱり伊之助さんは、わたしのよい友だちだ。」
 今は彼も意を決した。この上は、伊之助と連れだって、今度の布告の趣意を万福寺住職に告げ断わるため、馬籠の北側の位置にある田圃《たんぼ》の間の寺道を踏むばかりになった。


 万福寺の松雲|和尚《おしょう》はもとの名を智現《ちげん》という。行脚《あんぎゃ》六年の修業の旅を終わり、京都本山の許しを得て名も松雲と改め、新住職として馬籠の寺に落ちついたのは、もはや足掛け二十年の前に当たる。
 あれは安政元年のことで、半蔵が父吉左衛門も、伊之助が養父金兵衛も、共にまだ現役の宿役人としてこの駅路一切の世話に任じていたころだ。旧暦二月末の雨の来る日、美濃路《みのじ》よりする松雲の一行が中津川宗泉寺老和尚の付き添いで、国境《くにざかい》の十曲峠《じっきょくとうげ》を上って来た時、父の名代として百姓総代らと共に峠の上の新茶屋まで新住職の一行を出迎えたのもまだ若いころの半蔵だった。旅姿の松雲はそのまま山門をくぐらずに、まず本陣の玄関に着き、半蔵が家の一室で法衣|装束《しょうぞく》に着かえ、それから乗り物、先箱《さきばこ》、台傘《だいがさ》で万福寺にはいったのであった。
 二十年の月日は半蔵を変えたばかりでなく、松雲をも変え、その周囲をも変えた。和尚もすでに五十の坂を越した。過ぐる月日の間、どんなさかんな行列が木曾街道に続こうと、どんな血眼《ちまなこ》になった人たちが馬籠峠の上を往復しようと、日々の雲が変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにながめ暮らして、ただただ古い方丈の壁にかかる達
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