磨《だるま》の画像を友として来たような人が松雲だ。毎朝早くの洗面さえもが、この人には道を修めることで、法鼓《ほうこ》、諷経《ふうぎん》等の朝課の勤めも、払暁《ふつぎょう》に自ら鐘楼に上って大鐘をつき鳴らすことも、その日その日をみたして行こうとする修道の心からであった。一日成さなければ一日食うまい、とは百丈禅師のような古大徳がこの人に教えた言葉だ。仏餉《ぶっしょう》、献鉢《けんばち》、献燈、献花、位牌堂《いはいどう》の回向《えこう》、大般若《だいはんにゃ》の修行、徒弟僧の養成、墓|掃除《そうじ》、皆そのとおり、長い経験から、ずいぶんこまかいところまでこの人も気を配って来た。たとえば、毎年正月の八日には馬籠仲町にある檀家《だんか》の姉様《あねさま》たちが仏参を兼ねての年玉に来る、その時寺では十人あまりへ胡桃餅《くるみもち》を出す、早朝から風呂《ふろ》を焚《た》く、あとで出す茶漬《ちゃづ》けの菜《さい》には煮豆に冬菜のひたしぐらいでよろしの類《たぐい》だ。寺は精舎《しょうじゃ》とも、清浄地とも言わるるところから思いついて、明治二年のころよりぽつぽつ万福寺の裏山を庭に取り入れ、そこに石を運んだり、躑躅《つつじ》を植えたりして、本堂や客殿からのながめをよくしたのもまた和尚だ。奥山の方から導いた清水《しみず》がこの庭に落ちる音は、一層寺の境内を街道筋の混雑から遠くした。
こんな静かな禅僧の生活も、よく見れば動いていないではない。大は将軍家、諸侯から、小は本陣、問屋《といや》、庄屋、組頭《くみがしら》の末に至るまでことごとく廃された中で、僧侶《そうりょ》のみ従前どおりであるのは、むしろ不思議なくらいの時である。御一新以前からやかましい廃仏の声と共に、神道葬祭が復興することとなると、寺院は徳川幕府の初期以来保証されて来た戸籍公証の権利を侵さるるのみならず、宗門人別離脱者の増加は寺院の死活問題にも関する。これには各宗の僧籍に身を置くものはもとより、全国何百万からの寺院に寄宿するものまで、いずれも皆強い衝動を受けた。この趨勢《すうせい》に鑑《かんが》み、中年から皇国古典の道を聞いて、大いに松雲も省みるところがあった。和尚がことに心をひかれたのは、人皇三十一代用明天皇第二の皇子、すなわち厩戸皇子《うまやどのおうじ》ののこした言葉と言い伝えられるものであった。この国|未曾有《みぞう》の仏
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