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山窓《やままど》にねざめの夜はの明けやらで風に吹かるる雨の音かな
祖《おや》の祖《おや》のそのいにしへは神なれば人は神にぞ斎《いつ》くべらなる
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この述懐の歌は、半蔵が斎《いつき》の道を踏みたいと思い立つ心から生まれた。すくなくも、その心を起こすことは、先師の思《おぼ》し召しにもかなうことであろうと考えられたからで。
新しい路《みち》をひらく手始めに、まず半蔵は自家の祭葬のことから改めてかかろうと思い立った。元来神葬祭のことは中世否定の気運と共に生まれた復古運動のあらわれの一つで、最も早くその根本問題に目を着け、またその許しを公《おおやけ》に得たものは、士籍にあっては豊後岡藩《ぶんごおかはん》の小川|弥右衛門《やえもん》、地下人《じげにん》(平民)にあっては伊那小野村の庄屋倉沢|義髄《よしゆき》をはじめとする。ことに、義髄は一日も人身の大礼を仏門に委《ゆだ》ねるの不可なるを唱え、中世以来宗門仏葬等のことを菩提寺《ぼだいじ》任せにしているのはこの国の風俗として恐れ入るとなし、信州全国|曹洞宗《そうとうしゅう》四百三か寺に対抗して宗門|人別帳《にんべつちょう》離脱の運動を開始したのは慶応元年のころに当たる。義髄はそのために庄屋の職を辞し、京都寺社奉行所と飯田千村役所との間を往復し、初志を貫徹するために前後四年を費やして、その資産を蕩尽《とうじん》してもなお屈しないほどの熱心さであった。徳川幕府より僧侶《そうりょ》に与えた宗門権の破棄と、神葬復礼との奥には、こんな人の動きがある。しかし世の中は変わった。その年、明治六年の十一月には、筑摩《ちくま》県|権令《ごんれい》永山盛輝《ながやまもりてる》の名で、神葬仏葬共に人民の信仰に任せて聞き届ける旨《むね》はかねて触れ置いたとおりであるが、今後はその願い出にも及ばない、各自の望み次第、葬儀改典勝手たるべしの布告が出るほどの時節が到来した。木曾福島取締所の意をうけて三大区の区長らからそれを人民に通達するほどの世の中になって来た。これは半蔵にとっても見のがせない機会である。彼は改典の事を共にするため、何かにつけての日ごろの相談相手なる隣家の主人、伊之助を誘った。
菩提寺任せにしてあった父祖の位牌《いはい》を持ち帰る。その塵埃《ほこり》を払って家に迎え入れる。墓地の掃除も寺任せにしない
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