まだまちまちの説を執って疑念の晴れるところまで至っていない。三宮《さんのみや》事件はこの新政府にとって誠意と実力とを示す一つの試金石とも見られた。二月の九日になると、各国公使あての詫書《わびしょ》が京都から届いた。それは陸奥陽之助《むつようのすけ》が使者として持参したというもので、パアクスらはその書面を寺島陶蔵から受け取った。見ると、朝廷新政のみぎり、この不行き届きのあるは申しわけがない。今後双方から信義を守って相交わるについては、こんな妄動《もうどう》の所為のないようきっと申し渡して置く。今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。このたびの儀は、備前家来|日置帯刀《へきたてわき》に謹慎を申し付け、下手人滝善三郎に割腹《かっぷく》を申し付けたから、そのことを各国公使に告げるよう勅命をこうむった、と認《したた》めてある。宇和島《うわじま》少将(伊達宗城《だてむねなり》)の花押《かおう》まである。
その日、兵庫の永福寺の方では本犯者の処刑があると聞いて、パアクスは二人《ふたり》の書記官を立ち会わせることにした。日本側からは、伊藤俊介《いとうしゅんすけ》、他一名のものが立ち会うという日であった。その時の公使の言葉に、
「自分は切腹が日本武士の名誉であると聞く。これは名誉の死であってはならない。今後の戒めとなるような厳罰に処することであらねばならない。」
パアクスも大きく出た。
その時になると、外人殺害者の処刑について世間にはいろいろな取りざたがあった。世が世なら、善三郎は無礼な外夷《がいい》を打ち懲らしたものとして、むしろお褒《ほ》めにも預かるべき武士だと言うものがある。彼は風采《ふうさい》も卑しくなく、死に臨んでもいささか悪びれた態度もなく、一首の辞世を残して行ったと言うものがある。一方にはまた、末期《まつご》に及んでもなお助命の沙汰《さた》を期した彼であった、同僚の備前藩士から何事かを耳のほとりにささやかれた時はにわかにその顔色を変えて震えた。彼も死に切れない死を死んで行ったと言うものもある。
四日過ぎには、各国公使は書記官を伴って大坂へ向け出発するばかりになった。居留地の保護は長州兵の隊長に、諸般の事務を兵庫在留の領事らに、それぞれ依頼すべきことは依頼した。兵庫、西宮《にしのみや》から大坂間の街道筋は、山陰、山陽、西海、東海諸道からの要路に当たって、宿駅人馬の継立《つぎた》ても繁雑をきわめると言われたころだ。街道付近の村々からは人足差配方の肝煎《きもい》りが日々両三名ずつ問屋場《といやば》へ詰め、お定めの人馬二十五人二十五匹以外の不足は全部雇い上げとし、賃銭はその月の十四日から六割増と聞こえているくらいだ。各国公使はこの陸よりする途中の混雑を避けて、大坂|天保山《てんぽうざん》の沖までは軍艦で行くことにしてあった。英国公使パアクスの提議で、護衛兵の一隊をも引率して行くことにした。この大坂行きは今までともちがい、各国公使がそれぞれの政府を代表しての晴れの舞台に臨むという時であった。
どうやら二月半ばの海も凪《なぎ》だ。いよいよ朝早く兵庫の地を離れて行くとなると、なんとなく油断のならない気がして来たと言い出すのはオランダ代理公使ブロックであった。先年、条約許容の勅書を携えて、幕府外国奉行|山口駿河《やまぐちするが》が老中|松平伯耆《まつだいらほうき》を伴い、大坂から汽船を急がせて来たのもこの道だと言い出すのは仏国公使ロセスであった。たとい、前例のない京都参府が自分らに許されるとしても、大坂から先の旅はどうであろうかと気づかうのは米国公使ファルケンボルグであった。
大坂西本願寺には各国公使を待ち受ける人たちが集まった。醍醐大納言《だいごだいなごん》(忠順《ただおさ》)は大坂の知事、ないしは裁判所総督として。宇和島少将(伊達宗城《だてむねなり》)はその副総督として。
次第に外国事務掛りの顔もそろった。兵庫裁判所総督としての東久世通禧も伊藤俊介らを伴って来た。これらの人たちが諸藩からの列席者を持ち合わす間に、順に一人《ひとり》ずつ寺僧に案内されて、清げな白足袋《しろたび》で広間の畳を踏んで来る家老たちもある。
その日、十四日は薩州藩から護衛兵を出して、小蒸汽船で安治川口《あじがわぐち》に着く各国公使を出迎えるという手はずであった。その日の主人役はなんと言っても東久世通禧であったが、この人とても外交のことに明るいわけではない。いったい、兵庫から大坂へかけての最初の外国談判は、朝廷の新政治を外国公使に報告し、諸外国の承認を求めねばならない。それにはなるべくは公卿《くげ》の中でその役を勤めるがよいということであった。ところが、公卿の中に、だれも外国公使に接したものがない。第一、西洋人というものにあったものもない。皆|尻込《しりご》みして、通禧を推した。通禧だけが西洋人の顔を見ているというわけで。彼なら西洋人の意気込みも知っているだろうからというわけで。この通禧は過ぐる慶応三年の冬、筑前《ちくぜん》の方にいて、一つ開港場の様子を見て置いたらよかろうと人にも勧められ、自分からも思い立ったことがある。同時に、三条公にも長崎行きを勧めるものがあったが、同公は一方の大将であり、それに密行も気がかりであるからと言って、同行はされなかった。通禧だけが行った。大山格之助の周旋で、薩州人になって長崎へ行った。さらに五代《ごだい》才助の周旋で、三週間ばかりも長崎にいて、変名でオランダやイギリスの商人にもあい、米人フルベッキなどにも交わった。その時、外国の軍艦も見、西洋の話も聞いたことがある。
人も知るごとく、通禧は文久三年の過去に、攘夷御親征大和行幸《じょういごしんせいやまとぎょうこう》の事件で長州へ脱走した七卿の一人である。攘夷主唱の張本人とも言うべき人たちの中での錚々《そうそう》である。不思議な運命は、この閲歴を持った人を外国人歓迎の主人役の位置に立たせた。ヨーロッパは日本を去ることも遠く、蘭書以外の洋書のこの国の書庫中に載せらるるものとても少ない。通禧はじめ国際に関する知識もまだ浅かった。しかし、徳川慶喜ですら先年各国公使をこの大坂に集めて将軍自ら会見する先例を開いている。新政府を護《も》り立てようとするものは、この際、何を忍んでも、外国事務局の設置を各国公使に認めさせ、いつまで排外を固執するものでないことを明らかにせねばならない。当時漢訳から来た言葉ではあるが、新熟語として士人の間に流行して来た標語に「万国公法」というがある。旧を捨て新に就《つ》こうとする人たちはそれを何よりの水先案内として、その万国公法の意気で異国人を迎えようとしていた。
そのうちに、公使らの安治川《あじがわ》着を知らせる使者が走って来た。軍旗をたてた薩州兵の一隊を先頭に、護衛の外国兵はいずれも剣付き鉄砲を肩にして、すでに外人居留地を出発したとの注進がある。駕籠《かご》に乗った異人の行列を見ようとする男や女の出たことも驚くばかり、大坂運上所の前あたりから、居留地、新大橋の辺へかけては人の黒山を築いているとの注進もある。
各国公使の一行は無事に西本願寺に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行十二人の外交団だ。しばらく休息の時を与えるため、接待役の僧が一室に案内し、黒い裙子《くんし》を着けた子坊主《こぼうず》は高坏《たかつき》で茶菓なぞを運んで行って一行をもてなした。
寺の大広間は内外の使臣が会見室として、すでにその準備がととのえてある。やがて外人側は導かれて畳の上に並べた椅子《いす》に着いた。列藩の家老たちも来てそれぞれ着席する。まず東久世通禧の発話で各公使への挨拶《あいさつ》があった。それは日本の政体の復古した事、帝《みかど》自ら政権を執りたもう事、外国の交際も一切朝廷で引き受ける事は過日兵庫において布告したとおり相違のない旨《むね》を告げ、今回外国事務局を建てて交易通商一切の諸事件をことごとく取り扱うから、今日改めて朝廷守護の列藩と共に、各国公使に会同してこの盟約を定める旨を告げた。これには公使らも異議がない。帝はじめ列藩の諸侯が日本人民のために広く信睦《しんぼく》を求め、互いに誠実をもって交わろうということは、各国においてもかねがね渇望したところである、今後は帝の朝廷を日本の主府と仰いで、万事その政令を奉ずるであろう。公使らはその意味のことを答えた。
通禧はまた、言葉を改めて言った。このたび万国と条約を改めた上は、帝自ら各国公使に対面して、盟《ちか》いを立てようとの思《おぼ》し召しである。不日《ふじつ》上京あるべき旨、各国公使に申し入れるよう、帝の命を奉じたのであると。公使らは恐れ入ったと言って、いずれ談合の上、明後日その御返事を申し上げると挨拶した。その時の英国公使の言葉に、徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に拝謁《はいえつ》することがかなわないならすみやかに浪華《なにわ》の地を退きたい、そして横浜にある居留民の保護に当たりたい一同の希望であると。これを聞くと、米国公使はそばにいる伊国公使や普国公使を顧みて、自分ら三人は明十五日までに大坂を出発して横浜へ回航したい、と述べた。
ファルケンボルグはしきりに手をもんだ。横浜居留地の方のことも心にかかるから、としきりに弁解した。通禧はその様子をみて取って言った。
「では、こうなすったら、いかがでしょう。明日中には謁見の日取りを京都からも申してまいりましょう。それまで御滞坂になって、その上で進退せられたら。諸君も京都へ行って一度は天顔を拝するがいい。」
滞坂中の各国公使の間には、帝に謁見の日限を確定して、それをもって盟《ちか》いの意味をはっきりさせたいと言うものと、ひどく上京を躊躇《ちゅうちょ》するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内《さんだい》は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところへ伝えられた。三条岩倉両公も困って、なんとかして奥向きを説諭してくれるようにとの伝言も添えてあった。
これには通禧も驚かされた。早速《さっそく》京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦《しんぼく》の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる以上はその留守居、すなわち各国公使にお会いにならぬという事はできない、これはお会いなさるがいい、西洋各国は互いに交際を親密にしている、日本のように別になっていない、諸藩の留守居と思《おぼ》し召すがいいと申し上げた。
もはや、周囲の事情はこの島国の孤立を許さない。その時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばならなかった。かつては幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人《けとうじん》と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとした岩瀬肥後《いわせひご》なぞの心を苦しめた立場は、ちょうど新政府当局者の身に回って来た。たとい、相手があの米国のハリスの言い残したように、「交易による世界一統」というごとき目的を立てて、工業その他のまだおくれていた極東の事情も顧みずに進み来るようなものであっても――ともかくも、国の上下をあげて、この際大いに譲らねばならなかった。
東征軍が出発した後の大坂は、あたかも大きな潮の引いたあとのようになった。留守を預かる諸藩の人たちと、出征兵士のことを気づかう市民とだけがそのあとに残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州《びしゅう》の御隠居や越前の松平|春嶽《しゅんがく》を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜その人は江戸|東叡山《とうえいざん》の
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