寛永寺《かんえいじ》にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
大坂西本願寺での各国公使との会見が行なわれた翌日のことである。中寺町にあるフランス公使館からは、各国公使と共に日本側の主《おも》な委員を晩食に招きたいと言って来た。江戸旧幕府の同情者として知られているフランス公使ロセスすら、前日の会見には満足して、この好意を寄せて来たのだ。
やがて公使館からは迎えのものがやって来るようになった。日本側からの出席者は大坂の知事|醍醐忠順《だいごただおさ》、宇和島|伊予守《いよのかみ》、それに通禧ときまった。そこで、三人は出かけた。
その晩、通禧らは何よりの土産《みやげ》を持参した。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思《おぼ》し召して各国公使に御対面あるがいいとの通禧の進言が奥向きにもいれられたのである。
中寺町のフランス公使館には主人側のロセスをはじめ、客分の公使たちまで集まって通禧らを待ち受けていた。そこには、まるで日本人のように話す書記官メルメット・カションがいて、通訳には事を欠かない。このカションが、
「さあ、これです。」
と、わざわざ日本語で言って見せて、通禧らの土産話をロセスにも取り次ぎ、他の公使仲間にも取り次いだ。
「ボン。」
ロセスがその時の答えは、そんなに短かかった。思わず彼の口をついて出たその短かい言葉は、万事好都合に運んだという意味を通わせた。英国のパアクス、米国のファルケンボルグ、伊国のトウール、普国のブランド、オランダのブロック――そこに招かれて来ている公使の面々はいずれも喜んで、十八日には朝延へ罷《まか》り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものがある。自分らはもう長いこと、この日の来るのを待っていたと言うものもある。
晩食。食卓の用意もすでにできたと言って、カションは一同の着席をすすめに来た。その時、宇和島少将は通禧の袖《そで》を引いて、
「東久世さん、わたしはこういうところで馳走《ちそう》になったことがない。万事、貴公によろしく頼みますよ。」
「どうも、そう言われても、わたしも困る。まあ、皆のするとおりにすれば、それでよろしいのでしょう。」
通禧の挨拶《あいさつ》だ。
配膳《はいぜん》の代わりに一つの大きな卓を置いたような食堂の光景が、やがて通禧らの目に映った。そこの椅子《いす》には腰掛ける人によって高下の格のさだまりがあるでもなかったが、でもだれの席をどこに置くかというような心づかいの細かさはあらわれていた。カションの案内で、通禧らはその晩の正客の席として設けてあるらしいところに着いた。パアクスの隣には醍醐大納言、ファルケンボルグとさしむかいには宇和島少将というふうに。そこには鳥の嘴《くちばし》のように動かせる箸《はし》のかわりに、獣の爪《つめ》のようなフォークが置いてある。吸い物に使う大きな匙《さじ》と、きれいに磨《みが》いた幾本かのナイフも添えてある。食卓用の白い口|拭《ふ》きを折り畳《たた》んで、客の前に置いてあるのも異国の風俗だ。食わせる物の出し方も変わっている。吸い物の皿《さら》を出す前に持って来るパンは、この国のことで言って見るなら握飯《むすび》の代わりだ。
カションはもてなし顔に言った。
「さあ、どうぞおはじめください。フランスの料理はお口に合いますか、どうですか。」
給仕人《きゅうじにん》が料理を盛った大きな皿を運んで来て、客のうしろから好きな物を取れと勤めるたびに、通禧らは西洋人のするとおりにした。パアクスが鳥の肉を取れば、こちらでも鳥の肉を取った。ファルケンボルグが野菜を取れば、こちらでも野菜を取った。食事の間に、通禧はおりおり連れの方へ目をやったが、醍醐大納言も、宇和島少将も、共にすこし勝手が違うというふうで、主人の公使が馳走《ちそう》ぶりに勧める仏国産の白いチーズも、わずかにその香気をかいで見たばかり。古い葡萄酒《ぶどうしゅ》ですら、そんな席でゆっくり味わわれるものとは見えなかった。
しかし、この食卓の上は楽しかった。そのうちに日本側の客を置いて、一人《ひとり》立ち、二人《ふたり》立ち、公使らは皆席を立ってしまった。変なことではある。その考えがすぐに通禧に来た。醍醐大納言や宇和島少将は、と見ると、これもいぶかしそうな顔つきである。なんぞ変が起こったのであろうか、それまで話を持って行って、互いにあたりを見回したころは、日本側の三人の客だけしかその食堂のなかに残っていなかった。
泉州《せんしゅう》、堺港《さかいみなと》の旭茶屋《あさひぢゃや》に、暴動の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐《とさ》の家中のものに襲われたとの報知《しらせ》である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃《そげき》されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。
翌十六日の朝、とりあえず通禧は米国公使館を訪《たず》ねた。ファルケンボルグにあって、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めねばならぬ。その考えから、通禧らは米国公使にしかるべく取りなしを依頼しようとした。
すると、フランス側からは早速《さっそく》抗議を提出して来た。それは御門《みかど》政府外国事務掛り、東久世少将、伊達伊予守両閣下へとして、次ぎのような手詰めの談判を意味したものであった。
[#ここから1字下げ]
「……かくのごとき事件は世間まれに見聞いたし候《そうろう》事にて、禽獣《きんじゅう》の所行と申すべし。ついては仏国ミニストル、ひとまず軍艦ウエストの船中へ引き取りおり、なお右行くえ相知れざる人々死生にかかわらず残らず当方へ御差し返し下されたく、明朝第八時まで猶予いたし候間、この段大坂を領せらるる当時の政府へ申し進じ置き候。万一、右のとおり御処置これなきにおいてはいかようの御|詫《わ》び御申し入れなされ候とも、かかる文明国の法則に違《たが》い、のみならずことにこのほど取りきめし条約書および条約の文に違背し、また当今御門政府の周囲にありて重役を勤めおる大名の家来にかくのごときの処置行なわれ候ては、これに対し相当と相心得候処置に及び候事にこれあるべく候間、この段申し進じ置き候。謹言。」
千八百六十八年二月、大坂において
[#地から11字上げ]日本在留
[#地から2字上げ]仏国全権レオン・ロセス
[#ここで字下げ終わり]
ともかくも、五代、岩下らの働きから、十七日の朝八時とは言わないで、正午まで待ってもらうことにした。行くえ不明の七名をそれまでには見つけて返すから、軍艦の横浜へ引き返すことだけは見合わせてほしいと依頼した。さて、通禧らは当惑した。どこにいるやもわからないようなものを必ず見つけて返すと言ってのけたからで。
その日の昼過ぎには、通禧は五代、中井らの人たちと共に堺《さかい》の旭《あさひ》茶屋に出張していた。済んだあとで何事もわからない。土佐の藩士らは知らん顔をして見ている。ぜひともその晩のうちに七人の死体を捜し出さねば、米国公使に取りなしを依頼した通禧らの立場もなくなるわけだ。一人|探《さが》し出したものには金三十両ずつやると触れ出したところ、港の漁夫らが集まって来て、松明《たいまつ》をつけるやら、綱をおろすやらして探した。七人の異人の死体が順に一人ずつその暗い海から陸へ上がって来た。いずれも着物なしだ。通禧らは人を呼んで、それぞれ毛布に包ませなぞして、七つの土左衛門《どざえもん》のために間に合わせの新規な服を取り寄せる心配までした。中井|弘蔵《こうぞう》がその棺を持って大坂に帰り着いたころは、やがて一番|鶏《どり》が鳴いた。
風雨の日がやって来た。ウエスト号という軍艦まで死骸《しがい》を持って行くにも、通禧らにはかなりの時を要した。その日は小松帯刀《こまつたてわき》も同行した。このあいにくな雨はどうだ、だれもそれを言わないものはない。しかしその雨を冒してまで届けに行くほどの心持ちを示さなかったら、フランス側でも穏やかに死骸《しがい》を引き取るとは言わなかったであろう。時刻も約束にはおくれた。通禧らは時計の針を正午のところに引き直して行って、ようやく約束を果たし、横浜の方へ引き返すことだけはどうやら先方に思いとどまってもらった。
浪《なみ》も高かった。フランス側ではこの風に危ないと言って、小蒸汽船を卸して通禧らを送りかえしてくれた。ともかくも、死骸はフランス側の手に渡った。しかし、この容易ならぬ事件のあと始末は。それが心配になって、通禧らは帰りの船からもう一度ウエスト号の方を振り返って見た。例の黒船は気味の悪い沈黙を守りながら、雨の川口にかかっていた。
しきりに起こる排外の沙汰《さた》。しかも今度の旭《あさひ》茶屋での件は諸外国との親睦《しんぼく》を約した大坂西本願寺会見の日から見て、実に二日目の出来事だ。危うくもまた測りがたいのは当時の空をおおう雲行きであった。そこで新政府では外国交際の布告を急いだ。太政官《だじょうかん》代三職の名で発表したその布告には、幕府において定め置いた条約が日本政府としての誓約であることからはじめて、時の得失により条目は改められても、その大体に至ってはみだりに動かすべきものでないの意味を告げてある。今さら朝廷においてこれを変えられたら、かえって信義を海外万国に失い、実に容易ならぬ大事であると心得よ、皇国固有の国体と万国公法とを斟酌《しんしゃく》して御採用になったのも、これまたやむを得ない御事であると心得よと告げてある。ついては、越前宰相以下|建白《けんぱく》の趣旨に基づき、広く百官諸藩の公議により、古今の得失と万国交際のありさまとを折衷せられ、今般外国公使の入京参朝を仰せ付けられた次第である、と告げてある。もとより膺懲《ようちょう》のことを忘れてはならない、たとい和親を講じても曲直は明らかにせねばならない、攻守の覚悟はもちろんの事であるが、先朝においてすでに開港を差し許され、皇国と各国との和親はその時に始まっている、このたび王政一新、万機朝廷より仰せいだされるについては、各国との交際も直ちに朝廷においてお取り扱いになるは元よりの御事である、今や御親政の初めにあたり、非常多難の時に際会し、深く恐懼《きょうく》と思慮とを加え、天下の公論をもつて奏聞《そうもん》に及び、今般の事件を御決定になった次第である、かつ、国内もまだ定まらない上に、海外万国交際の大事である、上下協力して共に王事に勤労せよ、現時の急務は活眼を開いて従前の弊習を脱するにあると心得よ、とも告げてある。
これは開国の宣言とも見るべきものであるが、大いに伸びようとするものは大いに屈しなければならないとの意志はこの英断にこもっていた。よろしく世界に進みいでよ、理のあるところには異国人にも頭を下げよ、彼の長を採り我の短を補い万世の大基礎を打ち建てよ、上下一致して縦横に踏み出せ、と言われたのはこの際である。
二月の十九日に、仏国公使からは五か条の申し出があった。三日間にその決答を求めて来た。その時になると、旭茶屋事件の真相もはっきりして来た。仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員は艦長の指揮により、士官両人の付き添いで、堺港内の深浅を測量していたところ、土州兵のためにその挙動を疑われ、にわかに岸からの狙撃《そげき》を受けたものであ
前へ
次へ
全42ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング