うしお》のように聞いていた。
 そのうちに、新政府の参与兼外国事務|取調掛《とりしらべがか》りなる東久世通禧《ひがしくぜみちとみ》をはじめ、随行員|寺島陶蔵《てらじまとうぞう》、伊藤俊介《いとうしゅんすけ》、同じく中島作太郎なぞの面々がその応接室にはいって来た。当日は、ちょうど新帝が御元服で、大赦の詔《みことのり》も下るという日を迎えていたので、新政府の使臣、およびその随行員として来た人たちは、いずれも改まった顔つきをしていた。初対面のこととて、まず各自の姓名職掌の紹介がある。六か国の代表者の目は一様にその日の正使にそそいだ。通禧《みちとみ》は烏帽子《えぼし》に狩衣《かりぎぬ》を着け、剣を帯び、紫の組掛緒《くみかけお》という公卿《くげ》の扮装《いでたち》であったが、そのそばには伊藤俊介が羽織袴《はおりはかま》でついていて、いろいろと公使らの間を周旋した。俊介は先年|井上聞多《いのうえもんた》と共に英国へ渡ったこともあるからで。武士らしい髷《まげ》を捨てて早くもヨーロッパ風を採り入れているような散髪のものは、正使随行員の中でもこの人|一人《ひとり》だけであった。そこにあるものは何もかもまだ新世帯の感じだ。建築物《たてもの》からして和洋折衷だ。万事手回りかねる際とて、椅子《いす》も粗末なものを並べて間に合わせてある。
 やがて通禧は右手に国書をささげて、各国公使の前でそれを読み上げた。
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「日本国天皇《にっぽんこくのてんのう》、|告[#二]諸外国帝王及其臣人[#一]《しょがいこくのていおうおよびそのしんじんにつぐ》。嚮者将軍徳川慶喜《さきにしょうぐんとくがわよしのぶ》、|請[#レ]帰[#二]政権[#一]也《せいけんをきさんとこいたるや》、|制[#二]允之[#一]《これをせいいんして》、|内外政事親裁[#レ]之《ないがいのせいじはしたしくこれをさいせり》。乃曰《すなわちいわく》、従前条約《じゅうぜんのじょうやくには》、|雖[#レ]用[#二]大君名称[#一]《たいくんのめいしょうをもちいたりといえども》、|自[#レ]今而後《いまよりのちは》、|当[#三]換以[#二]天皇称[#一]《まさにかうるにてんのうのしょうをもってすべし》、而諸国交際之儀《しこうしてしょこくとのこうさいのぎは》、|専命[#二]有司等[#一]《もっぱらゆうしらにめいぜん》。|各国公使諒[#二]知斯旨[#一]《かっこくこうしこのむねをりょうちせよ》。」
  慶応四年正月十日[#地から2字上げ]御諱《おんいみな》
[#ここで字下げ終わり]
 ともかくも、その日は日本の天皇が外国に対する御親政の始めであった。
 午後に、英国公使パアクスは東久世通禧と三宮英人殺傷事件の交渉談判を開いた。パアクスも当時の国情の殺気に満ちた情景は知りつくしていたから、あえてそう難題を持ち出そうとしなかった。即日にも穏やかに神戸の占領を解こうと言って、早速《さっそく》陸戦隊を引き揚げることを承諾した。それにはこの事件の本犯者を厳罰に処して将来の戒めとする事、日本政府はよろしく陳謝の意を表する事とを条件とした。
 やかましい三宮事件もこんなふうで、一気に解決を告げることになった。パアクスは双方の豊かな頬《ほお》に縮れ髯《ひげ》をたくわえている男だが、その時いささか得意げにその頬髯をなでて、
「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは御国に対し懇切な心から出た次第で、隔意のある事ではない。他の外国が交渉談判を開くとはわけ違いである。もしこれが他の外国人の殺傷の場合ででもあると、なかなかこんなわけにはまいるまい。」
 こういう意味のことを彼は通訳の書記官ミットフォードに言わせた。そして自分の言うことをわかってくれたかという顔つきで、堅い握手を求めるために、イギリス人らしい大きな手を東久世通禧の方に差し出した。


 パアクスは高い心の調子でいる時であった。この英国公使は前公使アールコックの方針を受け継いだ人で、かつては敵として戦った薩長《さっちょう》両藩の人士と握手する位置に立ち、兵器弾薬の類《たぐい》まで援助を惜しまないについては、その意見にも相応な理由はあった。この人に言わせると、今日世界はすでに全く開けて、いずれの国も皆交際しないものはない。国と国とが交わる以上は、人情もあまねく交わらないわけにいかない。物貨とてもそのとおりであろう。交易の道は小さな損害のないとは言えないが、しかしその小さな損害を恐れてそれを妨げるなら、必ず大艱難《だいかんなん》を引き出すようになる。ヨーロッパ人はもう長いことそれを経験して来た。在来の東洋諸国を見るに、多く皆|旧《ふる》くからの習慣を固守するばかりだ。貿易を制限するところがあり、居留地を限るところがあり、交際の退歩するところがある。我《われ》は開くことを希望するし、彼は鎖《とざ》すことを希望する。そんなふうに競い合って行って、彼も迫り我も迫って互いに一歩も譲らないとなると、勢い銃剣の力をかりないわけにいかなくなる。互いの事情を斟酌《しんしゃく》する必要がそこから起こって来る。それには「真知」をもってせねばならない。そもそも外国人は何のために日本へ来るのであるか。ほかでもない、政府と親しくし、日本人とも親しく交わりたいがためである。交易以来、そのために貧しくなった国はまだない。万一、一方の損になるばかりなら、その交易は必ずすたれる。双方に利があれば必ず行なわれもするし、必ず富みもする。交易をすれは物価が高くなる。物価が高くなれば輸出の減るということも起こって来る。輸入品が多くなれば交易のできなくなることもある。だから節制しないうちに自然と節制があるようなもので、交易は常に氾濫《はんらん》に至らない。国内の人民も物を欠くに至らない。約《つづ》めて言えば、人類の交際は明白な直道で、いじけたものでもなく、曲がりくねったものでもないのに、何ゆえに日本はこんなに外国を嫉視《しっし》するのであるか。外人の居住するものは同盟条約の中について日本のためにならないことがあるのであるか。日本治国の体裁に害あることがあるのであるか。条約の精神が行き渡るなら、今日すでに日本国じゅうのものが交易の利を受けて、おのおのその便利を喜ぶであろう。決して今日のように人心動揺して外人を讐敵《かたき》のように見ることはあるまい。この排外は、全く今までの幕府政治の悪いのと、外交以来諸藩の費用のおびただしいとによっておこって来た。この形勢を打破するには、見識ある日本諸侯の力に待たねばならない。薩長両藩の有志者のごときは実に国を憂うるものと言うべきである。これがアールコック以来の方針を押し進め、徳川の旧勢力に見切りをつけたパアクスの言い分であった。今では彼は各国公使仲間の先頭に立って、いまだに江戸旧幕府に執着するフランスを冷笑するほどの鼻息の荒さである。
 このパアクスだ。後は東久世通禧に約したように、兵庫神戸の警衛を全く長州兵の手に任せて、早速街道両口の木柵《もくさく》を取り払わせ、上陸中の外国兵をそれぞれ軍艦に引き揚げさせ、なお、港内に抑留してあった諸藩の運送船をも解放した。のみならず、彼は兵庫にある仮の居館に公使兼総領事として滞在して、地方一般の無政治無規則から日に日に新しい設備のできて行く状態をながめていた。十五日には兵庫事務局が諸問屋会所に仮に設けられ、十九日にはそれが旧幕府大坂奉行所の所属であった勤番所に移されるという時だ。この国の建て直しの日がやって来て見ると、百般の事務はことごとく新規まき直しで、ほとんど手の着けようがないかにも見えていた。
 しかし、同じ公使仲間でも、新政府に対するアメリカ公使ファルケンボルグの態度はすこし違う。早い話が、アメリカはこの国への先着者である。合衆国と条約を結んだのは、日本が外国と条約を結んだ初めての場合である。その先着者を出し抜いて、事ごとに先鞭《せんべん》を着けようとする英国公使の態度は、ハリス以来日本の親友をもって任ずるファルケンボルグにこころよいはずもない。
 当時、討幕の官軍はいよいよ三道より出発するとのうわさが兵庫神戸まで伝わって来た。大総督|有栖川宮《ありすがわのみや》は錦旗《きんき》節刀を拝受して大坂に出《い》で、軍国の形状もここに至って成ったとの風評はもっぱら行なわれるようになった。月の二十一日には、六か国の公使らは通禧《みちとみ》からの書面を受けて、東征の師の興《おこ》ったという報告に接した。武器を輸入して徳川慶喜およびその臣属を助くべからずとの意味を読んだ。その翌二十二日には兵庫に裁判所を兼ねた鎮台もできて、通禧がその総督に任ぜられたことも知った。
 この空気の中ではあるが、徳川慶喜はすでに前年十二月三日に外国公使らを大坂に集め、どんな変革がこの国に来ようとも、外交の事は依然責任を負うであろうと告げてある。公使らは、にわかに幕府を逆賊とは見なさない。この形勢をみて取ったファルケンボルグは率先して局外中立を唱え出した。そして、ひそかに新政府に武器を販売するイギリスと、旧幕府の手合いに軍用品を供給するフランスとに対して、アメリカの立場を明らかにした。
 ファルケンボルグの出した布告は、だれも正面から争えないほど厳正なものであった。彼は日本の御門《みかど》と大君との間に戦争の起こったことを布告し、かつ合衆国人民の局外中立を厳守すべきことを言い渡した。軍船あるいは運送船を売ることも貸すことも厳禁たるべきもの。兵士はもとより、武器、弾薬、兵粮《ひょうろう》、その他すべて軍事にかかわる品々をあるいは売りあるいは貸し渡すこともまた厳禁たるべきもの。もしこの規則にそむくなら、それは国際法から見て局外中立の法度《はっと》を破るものであるから、敵視せらるるに至ることはもちろんである、万一、これを破るものは軍法によって捕虜とせられ、その積み荷は没収せられ、局外荷主の品たりとも連累《れんるい》の禍《わざわ》いを免るることはできないと心得よ。日本国と合衆国との条約面の権によって、たとい自分の国籍のものたりとも右の規則を破ったものはあえてこれを保護することはできないものである。この布告が合衆国公使ファルケンボルグの名で、日本兵庫神戸にある居留館において、として発表された。
 アメリカ以外の条約国の公使らも、おもてむきこれには異議を唱えるものがなかった。彼らは皆、この局外中立の布告にならった。各国いずれも同じ文句で、ただ公使の名が異なるのみで。でも、生命《いのち》がけの冒険家が集まって来る開港場のようなところには、そう明るい昼間ばかりはない。ユウゼニイと名づくる砲船は十万ドルで肥前《ひぜん》へ売れたといい、ヒンダと名づくる船は十一万ドルで長州へ売れたともいう。その他、買い主と値段のよくわからないまでも、ひそかに内地へ売れたという外国船は幾|艘《そう》かあった。アテリネと名づくる汽船は、これも売り物で、暗夜にまぎれてこっそり兵庫に来たことはすぐその道のものに知れた。

       三

 旧暦の二月にはいって、兵庫にある外国公使らは大坂の会合に赴《おもむ》くため、それぞれしたくをはじめることになった。これは島津修理太夫《しまづしゅりだゆう》をはじめ、毛利長門守《もうりながとのかみ》、細川越中守《ほそかわえっちゅうのかみ》、浅野安芸守《あさのあきのかみ》、松平大蔵大輔《まつだいらおおくらたいふ》(春嶽《しゅんがく》)、それに山内容堂《やまのうちようどう》などの朝廷守護の藩主らが連署しての建議にもとづき、当時の急務は外国との交際を講明しないでは協《かな》わないとの趣意に出たものであった。各国がいよいよ新政府を承認するなら、前例のない京都参府を各国使臣に許されるであろうとの内々の達しまであった。
 それにしても新政府の信用はまだ諸外国の間に薄い。多年、排外の中心地として知られた京都にできた新政府である。この一大改革の機運を迎えて、開国の方向を確定するのが第一だとする新政府の熱心は聞こえても、各国公使らは
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