いように。神戸村の庄屋はそのことを仏国領事に伝えに来た。
「兵庫|奉行《ぶぎょう》はどうしたろう。」
 そういう領事の言葉をカションは庄屋に取り次いだ。通詞を呼ぶまでもなく、カションは自由に日本語をあやつることができたからで。
「お奉行さまですか。」と庄屋は言った。「お奉行さまはもう兵庫にはいません。」
 その時、領事はカションを通して、いろいろなことを訴えた。これではまるで無統治、無警察も同じである。在留する外人に出歩くなと言われても、自分らには兵庫から十里以内に歩行の自由がある。兵庫、神戸の住民は、世態の前途に改善の希望を置いて、この新しい港を開いたのではないかと。さすがのカションにもそう細かいことまでは伝えられなかったが、領事の言おうとする意味はほぼ相手に通じた。
 神戸村の庄屋は言った。
「とにかく、あなたがたの遠く出歩くことは危険ですぞ。」
 兵庫奉行はすでにのがれ、開港地警衛の兵士もまた去ってしまった。わずかに町々を回って歩くのは、町内のものが各自に組織した自警団と、外国軍艦から上陸させた居留民保護の一隊とがあるだけだった。西国諸藩の兵士で勤王のために上京するもの、京坂諸藩邸の使臣で情報を本国にもたらすもの、そんな人たちの通行が日夜に兵庫神戸辺の街道筋に続いていた。

       二

 新時代の幕はこんなふうに切って落とされた。兵庫神戸の新しい港を中心にして、開国の光景がそこにひらけて来た。それにはまず当時の容易ならぬ外国関係を知らねばならない。
 アールコックはパアクスよりも前に英国公使として渡来した人であるが、このアールコックに言わせると、外国は戦争を好むものではない。土地をむさぼるものでもない、ただ戦端を開くように誘う場合が三つある。いやしくも条約を取り結びながらその信義を守らない場合、ゆえなく外人を殺傷する場合、みだりに外人を疑って交易を妨害する場合がそれであると。
 不幸にも、先年東海道川崎駅に近い生麦《なまむぎ》村に起こったと同じような事件が、王政復古の日を迎えてまだ間もない神戸|三宮《さんのみや》に突発した。しかも、京都新政府においては徳川|慶喜《よしのぶ》征討令を発し、征討府を建て、熾仁親王《たるひとしんのう》をその大総督に任じ、勤王の諸侯に兵を率いて上京することを命ずるような社会の不安と混乱との中で。
 慶応四年正月十一日のことだ。兵庫に在留する英国人の一人《ひとり》は神戸三宮の付近で、おりから上京の途中にある備前《びぜん》藩の家中のものに殺され、なお一人は傷つけられ、その場をのがれた一人が海岸に走って碇泊《ていはく》中の軍艦に事の急を告げた。時に英仏米諸国の軍艦は前年十二月七日の開港以来ずっと湾内にある。この出来事を聞いた英国司令官は兵庫神戸付近が全くの無統治、無警察の状態におちいっているものと見なし、居留地保護の必要があるとして、にわかに仏米と交渉の上、陸戦隊を上陸させた。そのうちの英国兵の一隊は進んで生田《いくた》に屯《たむろ》している備前藩の兵士に戦いをいどんだ。三小隊ばかりの英国兵が市中に木柵《もくさく》を構えて戦闘準備を整えたのは、その時であった。神戸から大坂に続いて行っている街道両口の柵門《さくもん》には、監視の英国兵が立ち、武士および佩刀者《はいとうしゃ》の通行は止められ、町々は厳重に警戒された。のみならず、港内に碇泊する諸藩が西洋形の運送船およそ十七艘はことごとく抑留され、神戸の埠頭《ふとう》は英国のために一時占領せられたかたちとなった。


 英国陸戦隊の上陸とともに、兵庫神戸の住民の間には非常な混乱を引き起こした。英国兵が実戦準備の快速なことにもひどく驚かされた。土地の人たちは生田方面に起こる時ならぬ小銃の砲撃を聞いた。わずかの人数で英国兵の一隊に応戦すべくもない備前方があわてて摩耶《まや》山道に退却したとのうわさも伝わった。この不時の変時に、沿道住民の多くはその度を失ってしまった。
 その日の夕方になると、殺害された英国人の死体は担架に載せられてすでに現場から引き取られたとの風評も伝わった。事の起こりは、備前藩の家中|日置帯刀《へきたてわき》の従兵が上京の途《みち》すがらにあって、兵庫昼食で神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人がその行列を横ぎろうとしたのによる。こんな事件の起こらない前に、時節がら混雑する際であるから、なるべく街道筋を出歩かないようにとは、かねて神戸村の臨時取締役たる庄屋生島四郎太夫から外国領事を通じて居留の外国人へ注意を与えてあったのにその意味がよく徹底しなかったのであろう。英人らはこの横断がそれほど違法であるという東洋流の習慣を知らない。おまけに言語は通じないと来ている。前衛の備前兵がそれを制するつもりで、鎗《やり》をあげて威嚇《いかく》を試みたところ、一人の英人はかくしの中に入れていたナイフを執ってそれに抵抗する態度を示したというからたまらない。備前兵は怒《おこ》って一人を斃《たお》し、一人を傷つけたのだ。外国陸戦隊の上陸は、こんな殺傷の結果であった。何にせよ相手は生麦事件以来、強硬な態度で聞こえたイギリスであり、それに兵庫にはこんな際の談判に当たるべき肝心な奉行もいない。兵庫奉行|柴田剛中《しばたごうちゅう》は幕府の役人であるところから、社会に変革が起こると同時に危難のその身に及ぶことを痛く恐怖して、疾《と》くに姿を隠してしまった。この人がのがれる時には、宿駕籠《しゅくかご》に身を投げ、その外部を筵《むしろ》でおおい、あたかも商家の船荷のように擬装して、人をして海岸にかつぎ出させ、それから船に乗って去ったというくらいだ。こんな空気の中で、夕やみが迫って来た。多くの住民の中には家財諸道具を片づけるものがある。ひそかにそれを近村へ運ぶものがある。年寄りや子供を遠くの農家へ避難させるものもある。
 たまたま、三百余人の長州藩《ちょうしゅうはん》の兵士を載せた船が大坂方面からその夜の中に兵庫の港に着いた。おそらく京坂地方もすでに鎮定したので、関税その他を新政府の手に収めることを先務として、兵庫開港場警衛の命を受けて来た人たちであったろう。英国兵はそれとは知らないから、備前藩の兵が大挙してやって来たのだと誤り認めて、まさに発砲するばかりになった。長州兵がそうでないと告げても、外人は信じない。長州兵の中には怒って外人の無礼を懲らそうと主張するものが出て来た。こうなると、町々は焼き払われるだろうと言って、兵火の禍《わざわ》いに罹《かか》ることを恐れる声が一層住民を狼狽《ろうばい》させた。長州兵の隊長は本陣|高崎弥五平《たかさきやごへい》方に陣取ったが、同藩の定紋を印《しる》した高張提灯《たかはりぢょうちん》一対を門前にさげさせて、長州藩の兵士たることを証し、なおその弥五平宅で英国士官と談判した。その時になって外人も備前藩の兵でないだけは諒解《りょうかい》したが、しかしこの地の占領を解くことを断じて肯《がえん》じない。長州兵はやむを得ないで奥平野《おくひらの》村の禅昌寺《ぜんしょうじ》に退いた。そこを宿衛の本拠として、その夜のうちに兵庫その他の警衛に従事した。そして非常を戒めた。
 過ぐる半月あまり安い思いも知らなかった兵庫神戸の住民が全く枕《まくら》を高くして眠ることのできるようになったのは、この長州兵を迎えてからであった。住民はかわるがわる来て、市中の取り締まりについた長州兵に、過ぐる日夜の恐ろしかったことを告げた。幕府廃止以来、世態の急激な変化は兵庫奉行の逃亡となり、代官手代、奉行付き別隊組兵士なぞは位置の不安と給料の不渡りから多く無頼《ぶらい》の徒と化したことを告げた。それらの手合いは自称浪士の輩《ともがら》と共に市中を横行し、あだかも押し借り強盗にもひとしい所行に及び、ひどいのになると白昼人家の門を破って住民を脅迫するやら、掠奪《りゃくだつ》をほしいままにするやら、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を顕出したことを告げた。外国陸戦隊の上陸はこんな際で、住民各自に自衛の方法を講じつつ、いずれも新しい統治者を待ちわびているところであると告げた。
 今や長州兵を迎えて、町々村々の人たちはようやくわずかに互いの笑顔《えがお》を見ることができた。幕府の役人を忌むことが深いだけ、長州兵に信頼することも厚い。あるものは幕府の命によって居留地工事を負担した一役人が巨額の工事金を古井戸の中に埋《うず》めていると告げに来る。あるものは大坂奉行所から新設道路工事を請け負った一役人がその土木工事金を隠匿していると告げに来る。ある事、ない事が掘り出された。在来幕府時代からの諸役人に対して土地のものが抱《いだ》いていた快くない感情までが一緒になって、一時にそこへ発して来た。だれが思いついて、だれがそれに調子を合わせるとも言えないような「えいじゃないか」のめずらしい声が、町々にはわくように起こって来た。


 はやし立てる「ええじゃないか」の騒ぎは正月十四日になってもまだやまない。その群集の声は神戸の海浜にある新しい運上所(税関)にまで響き伝わっていた。
 そこはいわゆる「びいどろの家」である。ガラス板でもって張った窓のある家もまだ神戸|界隈《かいわい》に見られないころに、開港の記念としてできた最初の和洋折衷の建築である。大坂の居館を去って兵庫の方に退いていた各国公使らは、それぞれ通訳に巧みな書記官をしたがえ、いずれも礼服着用で、その二階の広間に集まりつつあった。英国特派全権公使兼総領事パアクス、仏国全権公使ロセス、伊国特派全権公使トゥール、普国代理公使ブランド、オランダ公務代理総領事ブロック、それに米国弁理公使ファルケンボルグの人たちだ。その日、十四日は公使らが神戸運上所に集まって、京都新政府の使臣をそこに迎えるという日であった。
 幾つかの窓を通して、外人居留地と定められた区域の光景もその二階から望まれる。日本側の使臣を待つ間、公使らは思い思いにそれらの窓に近く行った。神戸は岸深《きしぶか》で、将来の繁華を予想させる位置にはあったが、いかに言っても開いたばかりの海浜だ。あるところは半農半漁の漁村に続くオランダ領事館の敷地であり、あるところは率先して工事に取りかかったばかりのようなイギリス領事館の敷地である。南の方に当たっては海も青く光っていて、港に碇泊《ていはく》する五隻の英艦と、三隻の仏艦と、一隻の米艦とを望むこともできた。だれの目にもまだ新しい港の感じが浮かばない。
 そこへおもしろおかしい謡《うた》の囃子《はやし》が聞こえる。三宮《さんのみや》の方角に起こる群集の声は次第に近づいて来る。前年の冬、徳川十五代将軍が大政奉還のうわさの民間に知れ渡るころから、一か月半以上も京坂各地に続いた「えいじゃないか」の騒ぎが、またこの土地に盛り返したのだ。その時、群集は三宮神社の前あたりから運上所を中心にする新開地の一区域にまであふれるように入り込んで来た。
 踊り狂う行列のにぎやかさ。数日前までほとんど生きた色もなかったような地方の住民とも思われないほどの祭礼気分だ。公使らはいずれも声のする窓の方へ行って、熱狂する群集をながめた。手ぬぐいを首に巻きつけて行くもののあとには、火の用心の腰巾着《こしぎんちゃく》をぶらさげたものが続く。あるいは鬱金《うこん》や浅黄《あさぎ》の襦袢《じゅばん》一枚になり、あるいはちょん髷《まげ》に向こう鉢巻《はちまき》という姿である。陽気なもの、勇みなもの、滑稽《こっけい》なものの行列だ。外国人同志の間にはうわさもとりどりで、あの「えいじゃないか」は何を謳歌《おうか》する声だろうと言い出すものがあったが、だれもそれに答えうるものがない。中には二階からガラス窓の一つをあけて、
「ブラボオ、ブラボオ。」
 と群集の方へ向けて日本びいきらしい声を送るフランス書記官メルメット・カションのような人もある。この年若なフランス人は自国の方のカアナバルの祭りのころの仮装行列でも思い出したように、老幼の差別なくもみ合いながら通り過ぎる人々の声を潮《
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