も外国同様に、港を開き、売買を始め、エジェント御迎え置き相成り候わば、御安全の事に存じ奉り候。
――日本数百年、戦争これなきは天幸と存じ奉り候。あまり久しく治平うち続き候えば、かえってその国のために相成らざる事も御座候。武事相怠り、調練行き届かざるがゆえに御座候。大統領考えには、日本世界中の英雄と存じ候。もっとも、英雄は戦《いくさ》に臨みては格別尊きものに候えども、勇は術のために制せられ候ものゆえ、勇のみにて術なければ、実は尊しとは参りがたきものに御座候。今日の備えに大切なるは、蒸汽船その他、軍器よろしきものにほかならず。たとい、英人と合戦なされ候とも、英国はさまでの事にはあるまじくとも、御国の御損失はおびただしき事と存じ奉り候。
――日本はまことに天幸にて、戦争の辛苦は書史にて御覧なされ候のみ、いまだ実地を御覧なき段、重畳《ちょうじょう》の御事に御座候。これは全くかけ離れたる東方の位置にありしため、ただいままでその沙汰《さた》なかりし儀にて、もし英仏両国に近くあらばもちろん、たとい一国にても御国と格別かけ離れおり申さず候わば、疾《と》くに戦争起こり候事にこれあるべく候。戦争の終わりは、いずれ条約取り結ばず候ては相成りがたき御事に候。わが大統領の願いを申さば、戦争いたさずして直ちに敬礼を尽くし条約相成り候よういたしたくとの儀に御座候。西洋近来名高き提督の語にも、『格別の勝利を得候|戦《いくさ》より、つまらぬ無事の方よろし』と御座候。
――今般、大統領より私差し越し候は、御国に対し懇切の心より起こり候儀にて、隔意ある事にはこれなく、他の外国より使節等差し越し候とはわけ違いと申し候。右等の儀よろしく御推察下さるべく候。ことに、このたび御開港等、御差し許しに相成り候とも、一時に御開きと申す儀にはこれなく、追い追い時にしたがい御開き相成り候よういたし候わば、御都合よろしかるべくと存じ奉り候。英国と条約御結びの場合には、必ず右様には相成るまじくと、大統領も申しおり候。国々より条約のため使節差し越し候とも、世界第一の合衆国の使節よりかくのごとく御取りきめ相成り候|旨《むね》、仰せ聞けられ候わば、かれこれは申すまじく候。合衆国大統領は別段飛び離れたる願いは仕《つかまつ》らず、合衆国人民へ過不及なき平等の儀、御許しのほど願いおり候ことに御座候。
――二百年前、御国において、ホルトガル人、イスパニヤ人御追放なされ候ころは、ただいまとは外国の風習大いに異なり申し候。そのころは宗門の事を皆願いおり申し候。アメリカにては宗門などは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧め候ようのことさらにこれなく候。何を信仰いたし候とも人々の心次第に御座候。当時ヨーロッパにては信仰の基本を見出し申し候。右は銘々の心より信じ候ゆえ、その心に任せ候よりほかにいたし方これなくと決着つかまつり候。宗門種々これあり候えども、畢竟《ひっきょう》人を善《よ》くいたし候趣意にほかならず。アメリカには仏の堂も耶蘇《ヤソ》の堂も一様に並びおり、一目に見渡し候よういたしあり、宗門につき一人も邪心を抱《いだ》き候ものこれなく、銘々安らかに今日を送り申し候。ホルトガル人、イスパニヤ人など日本へ参り候は自己の儀にて、政府の申し付けにはこれなく候。そのころは罷《まか》り越し候もの売買をいたし、宗門をひろめ、その上、干戈《かんか》をもって日本を横領する内々の所存にて参りし儀と存じ候。右参り候ものは廉直《れんちょく》のものにこれなく、反逆いたす見込みのものゆえ、その人物も推し量られ申し候。幸いに当時は右様のものこれなく候。
――当時の風習は世界一統の睦《むつ》まじきことを心がけ、一方の潤沢を一方に移し、何地《いずち》も平均に相成り候よういたし候ことに御座候。たとえば、英国にて凶作打ち続き食物に困り候えば、豊かなる国より商売を休《や》めその食物を運びつかわし候ようの風儀に御座候。交易と申し候えば品物に限り候よう相聞こえ候えども、新規発明の儀など互いに通じ合い、国益いたし候もまた交易の一端に御座候。諸州勝手に交易いたし候わばその国のもの世界中の儀をことごとく心得候よう相成り申すべく候。もとより農作は国中第一の業に候えども、国内のものことごとく農作いたし候ようには相成り申さず、その中には職人も産業いたし候ものもこれあり、互いに助け合う儀にこれあり候。国々によりては、他国の方に細工奇麗にて価も安き品|数多《あまた》これあり候。国用より多く出来《しゅったい》いたし候品は外国へ相渡し、その国になき産物は他邦より運び入れ候儀に御座候。それゆえ、諸国の交易いたし候えば、造り出し候品も多く相成り、かつは外国の品物も自由にいたし候儀もでき申し候。自己の製し申さざる品々も容易に得られ候は、容易にこれあり候。交易は直ちに便利なるため、懇切の心よりいたし候えば、戦争を避け候よう自然相成り申し候。もっとも、他邦より産物運び入れ候節は、その租税は必ず差し出し申し候。アメリカにては右租税をもって国内の費用を繕い、なお余りは年々宝蔵へ納め置き候事に御座候。租税の法種々これあり候えども、まず他邦より輸入いたし候ものの税より充分なるはこれなく候。
――ただいま、東インド一円はイギリスの所領と相成り候えども、元来は数か国に分かれおり候ところ、いずれも西洋と条約取り結ばざりしため、ついに英国に一統いたされ候。一本立ちの国の損は諸方において右より心づき申し候。シナ日本においても東インドの振り合いをもって、とくと御勘考これあり候ようしかるべくと存じ奉り候。日本も交易御開きに相成り候わば、御国の船印《ふなじるし》諸州の港にて見知り候よう相成り申すべく候。高山へ格別|眼力《がんりき》よろしき人登り見候わば、アメリカ製の鯨船数百艘、日本国の周囲に寄り合い、鯨漁いたし候儀、相見え申すべし。自国にて、いたしがたき業にてもこれなきを、他国のものに得られ候段、笑止の事に御座候。
――格別|上智《じょうち》のものの申し候には、今般英仏とシナとの戦争長続きはあるまじき由、左《さ》候えばイギリス使節はほどなく御当地へ参り申すべく候。憚《はばか》りながら御手前様、御同列様、御相談の上、その節の御取り扱い等を今より定め置かれ候よう大切に存じ奉り候。私考え候ところにては、交易条約御取り結びのほか、御扱い方もこれあるまじくと存じ奉り候。私名前にて東方にあるイギリス、フランスの高官へ書状差しつかわし、日本政府において交易条約御取り結び相成り、なお、他の外国へも御免許相成るべきはずの趣、申し達し候わば、五十艘の蒸汽船も一艘または二、三艘にて事済み申すべく候。今日は大統領の意向、ならびにかねて申し上げ置き候英国政府の思惑《おもわく》、内々《ないない》に申し上げ候儀に御座候。
――今日は私一生の中の幸福なる日に御座候。今日申し上げ候儀、御取り用いに相成り、日本国安全のなかだちとも相成り候わば、この上なき幸いの儀に御座候。ただいま申し上げ候は、世界中の儀にて、一切取り飾りなどは御座なく候。」
右の通り申し上げ候事
[#ここで字下げ終わり]
これがハリスの長口上だ。
この先着のアメリカ人が教えたことは、よい意味にも悪い意味にもこの国民の上に働きかけた。ハリスは米国提督のペリイとも違い、力に訴えてもこの国を開かせようとした人ではなかった。相応に日本を知り、日本の国情というものをも認め、異国人ながらに信頼すべき人物と思われたのもハリスであった。国を開くか開かないかの早いころに来てこのハリスの教えて置いたことは、先入主となって日本人の胸の底に潜むようになったのである。あだかも、心の柔らかく感じやすい年ごろに受け入れた感化の人の一生に深い影響を及ぼすように。
[#改頁]
第二章
一
商船十数|艘《そう》、軍艦数隻、それらの外国船舶が兵庫《ひょうご》の港の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも、函館《はこだて》からも、または上海《シャンハイ》方面からも。数隻の外国軍艦のうちには、英艦がその半ばを占め、仏艦がそれに次ぎ、米艦は割合にすくなかった。港にある船はもとより何百艘で、一本マスト、二本マストの帆前船、または五大力《ごだいりき》の大船から、達磨船《だるまぶね》、土船《つちぶね》、猪牙船《ちょきぶね》なぞの小さなものに至るまで、あるいは動き、あるいは碇泊《ていはく》していた。その活気を帯びた港の空をゆるがすばかりにして、遠く海上へも響き渡れとばかり、沖合いの外国軍艦からは二十一発の祝砲を放った。
慶応三年十二月七日のことで、陸上にはまだ兵庫開港の準備も充分には整わない。英米仏などの諸外国は兵庫開港が条約期日に違《たご》うのではないかと疑い、兵力を示してもその履行を促そうと協議し、開港準備の様子をうかがっていた際である。外人居留地はまだでき上がらないうちに、開港の期日が来てしまったのだ。しかし、神戸《こうべ》村の東の寂しく荒れはてた海浜に新しい運上所《うんじょうしょ》が建てられ、それが和洋折衷の建築であり、ガラス板でもって張った窓々が日をうけて反射するたびに輝きを放つ「びいどろの家」であるというだけでも、土地の人々をよろこばせた。三か所の波止場《はとば》も設けられ、三棟《みむね》ばかりの倉庫も落成した。内外の商人はまだ来て取り引きを始めるまでには至らなかったが、なんとなく人気は引き立った。各国領事がその仮住居《かりずまい》に掲げた国旗までが新しい港の前途を祝福するかに見えたのである。
翌慶応四年の正月が来て見ると、長い鎖国から解かれる日のようやくやって来たころは、やがて新旧の激しい争いがさまざまな形をとって、洪水《こうずい》のようにこの国にあふれて来たころであった。江戸方面には薩摩方《さつまがた》に呼応する相良惣三《さがらそうぞう》一派の浪士隊が入り込んで、放火に、掠奪《りゃくだつ》に、あらゆる手段を用いて市街の攪乱《こうらん》を企てたとのうわさも伝わり、その挑戦的《ちょうせんてき》な態度が徳川方を激昂《げきこう》させて東西雄藩の正面衝突が京都よりほど遠からぬ淀川《よどがわ》付近の地点に起こったとのうわさも伝わった。四日にわたる激戦の結果は会津《あいづ》方の敗退に終わったともいう。このことは早くも兵庫神戸に在留する外人の知るところとなった。ある外国船は急を告げるために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館《はこだて》へも長崎へも向かった。
海から見た陸はこんな時だ。伏見《ふしみ》、鳥羽《とば》の戦いはすでに戦われた。うわさは実にとりどりであった。あるものは日本の御門《みかど》と大君との間に戦争が起こったのであるとし、あるものは江戸の旧政府に対する京都新政府の戦争であるとし、あるものはまた、南軍と北軍とに分かれた強大な諸侯らの戦争であるとした。その時になると、一時さかんに始まりかけた内外商品の取り引きも絶えて、鉄砲弾薬等の売買のみが行なわれる。日本と外国との交際もこの先いかに成り行くやは測りがたかった。
フランス公使館付きの書記官メルメット・カションはこの容易ならぬ形勢を案じて、横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方に新館のできるまで家を借りて仮住居《かりずまい》する同国の領事もいる。カションはその同国人のところへ、江戸方面に在留する外人のほとんど全部がすでに横浜へ引き揚げたという報告を持って来た。英仏米等の外国軍艦からは連合の護衛兵を出して構浜居留地の保護に当たっている、おそらく長崎方面でも同様であろうとの報告をも持って来た。
新開の兵庫神戸でもこの例にはもれなかった時だ。そこへ仏国領事を見に来たものがある。この地方にできた取締役なるものの一人《ひとり》だ。神戸村の庄屋《しょうや》生島四郎大夫《いくしましろだゆう》と名のる人だ。上京する諸藩の兵士も数多くあって混雑する時であるから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずる懸念《けねん》もあるから、当分神戸辺の街道筋を出歩かな
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