解決にたどり着いたのである。
大きな破壊が動いたあとだ。いよいよ廃藩が断行され、旧諸藩はいずれも士族の救済に心を砕き、これまで蝦夷地《えぞち》ととなえられて来た北海道への開拓方諸有志の大移住が開始されたのも、これまた過ぐる三年の間のことである。武家の地盤は全く覆《くつがえ》され、前年の十二月には全国募兵の法さえ設けられて、いわゆる壮兵のみが兵馬の事にたずさわるのを誇れなくなった。
瓦解《がかい》の勢いもはなはだしい。従来一芸をもって門戸を張り、あるいはお抱《かか》え、あるいはお出入りなどととなえて、多くの保護を諸大名旗本に仰いでいた人たちまでが、それらの主人公と運命を共にするようになって行った。その影響は次第に木曾路にもあらわれて来る。一流の家元と言われた能役者で、旅の芸人なぞの群れにまじり、いそいそとこの街道に上って来るのも、今はめずらしくない。
この混沌《こんとん》とした社会の空気の中で、とにもかくにも新しい政治の方向を地方の人民に知らしめ、廃関以来不平も多かるべき木曾福島をも動揺せしめなかったのは、尾州の勘定奉行《かんじょうぶぎょう》から木曾谷の民政|権判事《ごんはんじ》に転任して来た土屋総蔵の力による。ずっと後の時代まで善政を謳《うた》われた総蔵のような人の存在もめずらしい。この人の時代は、木曾谷の支配が名古屋県総管所(吉田|猿松《さるまつ》の時代)のあとをうけ、同県出張所から筑摩県《ちくまけん》の管轄に移るまでの間で、明治三年の秋から明治五年二月まで正味二年足らずの短い月日に過ぎなかったが、しかしその短い月日の間が木曾地方の人民にとっては最も幸福な時代であった。目安箱《めやすばこ》の設置、出板《しゅっぱん》条例の頒布《はんぷ》、戸籍法の改正、郵便制の開始なぞは皆その時代に行なわれた。総蔵はまた、凶年つづきの木曾地方のために、いかなる山野、悪田、空地《あきち》にてもよくできるというジャガタラ芋《いも》(馬鈴薯《ばれいしょ》)の試植を勧め、養蚕を奨励し、繰糸器械を輸入した。牛馬売買渡世のものには無鑑札を許さず、下々《しもじも》が難渋する押込みと盗賊の横行をいましめ、復飾もしない怪しげな修験者《しゅげんじゃ》には帰農を申し付けるなど、これらのことはあげて数えがたい。この民政権判事が村々の庄屋|一人《ひとり》ずつに出頭を命じ、筑摩県への郷村の引き渡しを済ましたのは、前年二月十七日のことであった。総蔵は各村の庄屋が新しい戸長と呼ばれるのを見、そろそろ児童の就学ということが地方有志者の間に考えられるころに、それらの新しい教育事業までは手を着けないで木曾の人民に別れを告げて行った。
すべてが試みでないものはないような時だ。太陽暦の採用以来、時の分《わか》ちも今は明けの何時《なんどき》、暮れの何時とは言わない。その年から昼夜二十四時に改められた。月日の繰り方もこれまでの暦にくらべると一か月ほど早い。これは前年十二月上旬をもって太陰暦の終わりとし、新暦による正月元日が前年の冬のうちに来たからであった。
人心の一新はこんな暦からも。しかし、これまで小草山の口開《くちあ》けから種まきの用意まで一切はこの国固有の暦を心あてにして来た農家なぞにとっては、朔日《ついたち》だ十五日だということも月の満ち欠けに関係のないものはない。どうしても旧暦で年を取り直さなけれは新しい年を迎えた気もしないという村民のところへは、正月が一年に二度来る始末だ。多くの人々は新旧二通りの暦を煤《すす》けた壁に貼《は》りつけて置いて、新暦の四月一日が旧の三月幾日に当たると知らなければ、春分の感じが浮かぶはおろか、まだ季節の見当さえもつかなかった。
その年から新たに祝日と定められた四月三日は、木曾路で初めて迎える神武天皇祭である。その日は一般に休業し、神酒《みき》を供え、戸々奉祝せよ。旧《ふる》い習慣を脱しないで五節句休業のものもあるが、はなはだ不心得の事である。今後祝日のほかは家業を怠るまいぞ。こんなお触れが、筑摩県|権令《ごんれい》の名で駅々村々へ回って来る。あざやかな国旗が石を載せた板屋根の軒に高く掲げられるのも、これまでの山の中には見られなかった図だ。
半蔵の妻お民も、今は庄屋の家内でなくて、学事掛《がくじがか》りを兼ねた戸長の家内であるが、その祝日の休業を機会に、兄寿平次の家族を訪《たず》ねようとして馬籠の家を出た。もっとも、この訪問は彼女|一人《ひとり》でもない。彼女と半蔵との間には前年の二月に四男の和助《わすけ》が生まれて、その幼いものと下女のお徳とを連れていた。馬籠から奥筋へと続く木曾街道はお民らの目にある。ところどころの垣根《かきね》には梅も咲く。彼女らは行く先に日の丸の旗の出ている祝日らしい山家のさまをながめながめ、女の足で二里ばかりの道を歩いて、午後に妻籠《つまご》の生家《さと》に着いた。
二
お民はある相談をもって妻籠のおばあさんや兄寿平次を見に来た。その相談は、娘お粂《くめ》の縁談に関する件で、かねて伊那の南殿村、稲葉《いなば》という家は半蔵が継母おまんの生家《さと》に当たるところから、おまんの世話で、その方にお粂の縁談がととのい、前年の冬には南殿村から結納《ゆいのう》の品々を送って来て、その年の二月の声を聞くころはすでに結婚の日取りを申し合わせるまでに運んだのであった。今度のお民の妻籠訪問はその報告というばかりでなく、兄夫婦の耳にも入れて相談したいと思って来たことがあるからで。
お民ももう五人の子の母である。兄の家にもらわれて来ている次男の正己《まさみ》と、三男の森夫との間には、二人《ふたり》まで女の子を失ったが、それらの早世した幼いものまで合わせると七人もの子をなした年ごろに達している。今さら、里ごころでもあるまいに。しかし、その年になっても妻籠に帰って来て見ると、やはりおばあさんのそばは彼女にとって自分の家らしかった。ちょうど寿平次は正己を連れ、近くに住む得右衛門を誘い合わせ、祝日の休暇を見つけて山遊びに出かけた留守のおりであったが、年老いてまだ元気なおばあさんは孫のよめに当たるお里を相手に、妻籠旧本陣の表庭にいて手造りの染め糸を乾《ほ》すところであった。男の下着の黄八丈《きはちじょう》にでも織るものと見えて、おばあさんたちが風通しのいいところへ乾している糸の好ましい金茶であるのもお民の目についた。古くから山地の農民の間に実用されて来たように、おばあさんはその黄色な染料を山の小梨《こなし》に取ることから、木槌《きづち》で皮を砕き、日に乾し、煎《せん》じて糸を染めるまで、そういうことをよく知っていた。縫うこと、織ること、染めること、すべてこのおばあさんに仕込まれて、それをまた娘のお粂に伝えているお民としては、たまの里帰りが彼女自身の娘の昔を思い出させないものはない。
やがて天井の高い、広い囲炉裏ばたでは、おばあさんはじめお里やお民が黒光りのする大黒柱の近くに集まって、一しきり子供の話で持ちきった。お里と寿平次の間には長いこと子供がなく、そのために正己を馬籠から迎えて養っていたほどであるが、結婚後何年ぶりかでめずらしい女の子が生まれた。琴柱《ことじ》がその子の名だ。足掛け三つになる琴柱はもうなんでも言える。それに比べると、お民の連れて来た和助は誕生後二か月にもなるが、まだ口がきけない。立って歩くこともできない。殻《から》から出たばかりの青い蝉《せみ》のように、そこいらの畳の上をはい回っている。
「はい、今日《こんち》は。」
琴柱が女の子らしいませた口のききかたをすると、和助はその方へお辞儀にはって行った。何をどう覚えたものか、この子供はむやみやたらとお辞儀だ。おばあさんの方へお辞儀に行けば、お里の方へもお辞儀に行く。まだ無心な目つきをした幼いもののすることに、そこに集まっているものは皆笑った。
「もうたくさん。」
とお民が言って見せると、和助はまたお辞儀をした。
「お民、この子はまだお乳かい。お誕生が済んだら、お前、もう御飯でもいいぜ。なんにしても今があぶないさかりだねえ。ほんとに、すこしも目は放せませんよ。」
とおばあさんも言ってみた。
母であることはお民を変えたばかりでなく、お里をも変えた。あれほど病気がちで子供のないのをさみしそうにしていたお里が、母親らしい肉づきをさえ見せて来た。めっきり世帯《しょたい》じみても来た。お里はもはや以前のように、いつお民があって見ても変わらないような、娘々しい人でもない。そういうお民も子供のことに心を奪われて、ほとんど他をかえりみる暇がない。木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわるような山林事件のために奔走している夫半蔵のことよりも、自分の子供に風でも引かせまいとすることの方がお民には先であった。
寿平次も正己を連れて屋外《そと》から戻《もど》って来た。二人とも山遊びらしい軽袗《かるさん》ばきだ。兄はお民を見ると、自分の腰につけている軽袗の紐《ひも》をときながら、
「来たね。」
と相変わらずの調子だ。
寿平次も半蔵と同じように、今は新しい戸長の一人である。遠からず筑摩県地方は村々の併合が行なわれ、大区、小区の区制が設けられるはずで、そのあかつきには彼は八大区の区長としての候補者に定められているが、そんなことでも気をよくしている矢先であった。おまけに、お里には琴柱というかわいいものができて、行く行くは正己にめあわせられるという楽しみがあった。正己もめっきり成長した。すでに十三歳にもなる。来たる年には木曾福島の方へ送って、大脇自笑《おおわきじしょう》の塾《じゅく》にでも入門させ、自分のよい跡目相続としたい。そんな話が寿平次の口から出て来た。
妻籠にはまだ散切頭《ざんぎりあたま》も流行《はや》って来ない。多くのものの目にはその新しい風俗も異様に映る。その中で、今度お民が来て見た時は兄はすでにさっぱりとした散髪《さんぱつ》になっていた。
「どうだ、お民。おれに似合うか。」
と寿平次の言い草だ。
「半蔵さんもどうしているかい。」とまた寿平次がきく。
「兄さん、うちのいそがしさと来たら、見せたいよう。髭《ひげ》もろくに剃《そ》らずに飛び歩いていますよ。わたしが何をきいても、山林事件のためだとばかりで、くわしいことも話しません。」
「今度という今度は半蔵さんも全力をあげているらしい。おれも相談にはあずかってるし、大賛成じゃあるが、せめてこれが土屋総蔵の時代だとねえ。」
「そのことは、兄さん、うちでも言ってるようですよ。」
「そりゃ、名古屋県がこの木曾に出張所を置いて直接民政をやったころは、なんでも親切に、人民をよく教え導くという調子さ。あの土屋総蔵なぞは赴任して来ると、すぐ六人の官吏を連れて開墾その他の見分《けんぶん》にやって来たからね。あの時の見分は、贄川《にえがわ》から妻籠、馬籠まで。おれはあの権判事を地境《じざかい》へ案内した時のことを忘れない。木曾はこんな産馬地《うまどこ》だから、各村とも当歳の駒《こま》を取り調べて、親馬から、毛色、持ち主の名前まで書き出せというやり方だ。それからあの見分を済ましたあとで、村々へ回状を送ってよこしたが、その回状がまた振るってる。あれほど休泊の手当てに及ばないししたくも有り合わせでいいと言ってあるのに、うんとごちそうしてくれた村々がある。とかく官吏が旅行の際には不正な事も行なわれがちだから、今後ごちそうは無用だと書いてよこした。あれは明治三年の九月だ。そうだ、政府からは駅逓司《えきていし》の菊池大令史がこの地方へ出張して来たころだ。なんと言っても、土屋総蔵の時代はよかったよ。そのあとへ筑摩県の権判事として来た人が、今度は大いに暴威を振るおうとするんだから、まるで善悪の対照を見せつけられるようなものさね。こんな乱暴なやり口じゃ、今に地租の改正が始まっても、思いやられるナ。そりゃ、お民、あれほど半蔵さんが山林事件に身を入れて、いくらこの地方のために奔走しても、今の筑摩県の権判事がかわりでもしないうちはまず
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