起こした土は山のように盛りあげられて、周囲にある墓の台石もそのために埋《うず》められて見える。
しばらく半蔵は人の集まるのを待った。おまんらは細道づたいに、閼伽桶《あかおけ》をさげ、花を手にし、あるいは煙の立つ線香をささげなどして、次第に墓地へ集まりつつあった。そこここには杉《すぎ》の木立《こだ》ちの間を通して、恵那山麓《えなさんろく》の位置にある村の眺望《ちょうぼう》を賞するものがある。苔蒸《こけむ》した墓と墓の間を歩き回るものがある。
「いつ来て見ても、この御先祖のお墓はいい。」
と寿平次は半蔵に言って見せる。それは万福寺を建立した青山|道斎《どうさい》の形見だ。万福寺殿昌屋常久禅定門《まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん》の文字が深く刻まれてある古い墓石だ。いつ来て見ても先祖は同じように、長いと言っても長い目で、自分の開拓した山村の運命をそこにながめ暮らしているかのようでもある。
「いかにもこれは古人のお墓らしい。」
とまた寿平次は言っていた。いつのまにか松雲も来て半蔵のうしろに立ったが、静かな声で経文を口ずさむことがなかったら、半蔵はそこに和尚があるとも気づかなかったくらいだ。やがて、あちこちと気を配る清助のさしずで、新しい墓標も運ばれて来て、今は遺骸を葬るばかりになった。
鍬《くわ》をさげて埋葬の手伝いに来ている出入りの者の間には、一しきり寝棺をそばに置いて、どっちの方角を頭にしたものかとの百姓らしい言葉の争いもあった。北枕とも言い伝えられて来たところから、これは北でなければならないと言うものがある。仏葬から割り出して、西、西と言うものがある。墓地は浅い谷をへだてて村の裏側を望むような傾斜の地勢にあったから、結局、その自然な位置に従うのほかはなかった。
「さあ、細引《ほそびき》の用意はいいか。」
「皆しっかり手をかけろ。」
こんな声が人々の間に起こる。
寝棺は静かに土中に置かれた。鍬を手にした佐吉らのかける土は崩《なだ》れ落ちるように棺のふたを打った。おまんから孫の正己までが投げ入れる一塊《ひとくれ》ずつの土と共に、親しいものは寄り集まって深く深く吉左衛門を埋めた。
その葬式のあった晩は、吉左衛門に縁故の深かった人たちが半蔵の家の方に招かれた。青山の家例として、その晩の蕎麦振舞《そばぶるまい》には、近所の旦那衆が招かれるばかりでなく、生前吉左衛門の目をかけてやったような小前のものまでが招かれた。
時間を正確に守るということは、当時の人の習慣にない。本陣から下男の佐吉を使いに走らせても、なかなか時間どおりには客が集まらなかった。泊まりがけで来ている寿平次夫婦、得右衛門、それに勝重なぞは今一夜を半蔵のもとに送って行こうとしている。夕方から客を待つ間、半蔵は寿平次と二人《ふたり》で奥の間の外の廊下にいて、そろそろ薄暗い坪庭を一緒にながめながら話した。
その時になって見ると、葬られて行くものは、ひとり半蔵の父ばかりではなかった。あだかも過ぐる安政の大地震が一度や二度の揺り返しで済まなかったように、あの参覲交代制度の廃止を序幕として、一度大きく深い地滑《じすべ》りが将軍家の上に起こって来ると、何度も何度も激しい社会の震動が繰り返され、その揺り返しが来るたびに、あれほどの用心深さで徳川の代に仕上げられたものが相継いで半蔵らの目の前に葬られて行きつつある。
時には、半蔵は家のものに呼ばれて、寿平次のそばを離れることもある。街道を走って来る七里役(飛脚)はいろいろな通知を彼のもとに置いて行く。金札不渡りのため、福島総管所が百方周旋の結果、木曾谷へ輸入されるはずの大井米が隣宿落合まで到着したなぞの件だ。西からはまた百姓暴動のうわさも伝わり、宿場の改革に反対な人たちの不平はどんな形をとってどこに飛び出すやも知れないような際に、正金を融通《ゆうずう》したり米穀を輸入したりして時局を救おうとする当局者の奮闘は悲壮ですらある。
「問屋役廃止以来、おれもしょんぼり日を暮らして来た。」と半蔵は自分で自分に言った。「明るい世の中を前に見ながら、しおれているなんて――おれはこんなばかな男だ。」
半蔵はまた寿平次のいるところへ戻《もど》って行った。寿平次と彼とは互いに本陣同志、また庄屋同志で、彼の心にかかることはやがて寿平次の心にかかることでもある。
「半蔵さん、飛脚ですか。」
「えゝ、宿場の用です。いよいよ大井米もわれわれの地方へはいって来ます。」
「近いうちに君、名古屋藩も名古屋県となるんだそうじゃありませんか。そうなれば、福島総管所も福島出張所と改まるという話ですね。今度来る土屋総蔵《つちやそうぞう》という人は、尾州の御勘定奉行だそうですが、そういう人が来て民政をやってくれたら、この地方も見直しましょう。」
「そりゃ、君、尾州家で版籍を奉還する思いをしたら、われわれの家で問屋や会所を返上するぐらいは実に小さな事でさ。」
「さあ、ねえ。」
「どうでしょう。どうせ壊《こわ》れるものなら、思い切って壊して見たら。」
「半蔵さんは平田門人だから、そういう意見も出る。」
「でも、そこまで行かなかったら、御一新の成就《じょうじゅ》も望めなかありませんか。」
「君の言うように、思い切って壊して見る日にゃ、自分でも本陣や問屋と一緒に倒れて行くつもりでなくちゃ……こういう時になると、宗教のある人は違う。まあ、新政府のやり口をもっとよく見た上でないとね。一切はまだわたしには疑問です。」
その時、松雲和尚をはじめ、旧年寄役の人たちなぞが来て席に着き始めるので、二人はもうそんな話をしなかった。そこには奥の間、仲の間、次の間の唐紙《からかみ》をはずし、三室を通して客の席をつくってある。二里も三里もあるところから峠越しでその日の葬式に列《つら》なりに来て、万福寺や伏見屋に泊まっている隣の国の客もあったが、そういう人たちも提灯《ちょうちん》持参で招かれて来た。日ごろ出入りの大工も来、畳屋も来た。髪結いの直次も年をとったが、最後まで吉左衛門の髭《ひげ》を剃《そ》りに油じみた台箱をさげて通《かよ》ったのも直次で、これも羽織着用の改まった顔つきでやって来た。
松雲和尚の前に栄吉、得右衛門の前に清助、美濃から来た客の前には勝重までが取り持ちに出て、まず酒を勧めた。
「そうだ、今夜は皆の盃《さかずき》を受けて回ろう。おれも飲もう。」
半蔵はその気になって、伊之助と寿平次とが隣り合っている膳《ぜん》の前に行ってすわった。
「よくこんなにおしたくができましたね。」
と言って、伊之助も盃を重ねている。こうした一座の客として来ていても、静かに膳の上をながめ、膳に映る小盃の影を見つけて、それをよく見ているような人は伊之助だ。その時、半蔵が酒を勧めながら言った。
「まあ、時節がら、質素にとも思いましたがね、今夜だけは阿爺《おやじ》の生きてる日と同じようにしたい。わたしもそのつもりで、蕎麦《そば》で一杯あげることにしましたよ。」
半蔵は伊之助から受けた盃を寿平次の方へもさした。
「寿平次さん、この酒は伏見屋の酒ですよ。今夜は君もゆっくり飲んでください。」
そこここの百目蝋燭《ひゃくめろうそく》の灯《ほ》かげには、記念の食事に招かれて来た村の人たちが並んで膳についている。寿平次はそれを見渡しながら、箸《はし》休めの茄子《なす》の芥子《からし》あえも精進料理らしいのをセカセカと食った。猪口《ちょく》の白《しら》あえ、椀《わん》の豆腐のあんかけ、皿《さら》の玉子焼き、いずれも吉左衛門の時代から家に残った器《うつわ》に盛られたのが、勝手の方から順にそこへ運ばれて来た。小芋《こいも》、椎茸《しいたけ》、蓮《はす》の根などのうま煮の付け合わせも客の膳に上った。
あちこちと半蔵が盃を受けて回るうちに、ふと屋外にふりそそぐ雨の音が耳についた。秋の立つというころの通り雨が庭へ来る音だ。やがてその音の降りやむころには、彼は大工の前へも盃を受けに行き、髪結いの直次の前へも受けに行った。
「おれにも盃をくれるかなし。」
と子息《むすこ》の代理に来たお虎《とら》婆さんがそこへすわり直して言った。先祖の代から本陣に出入りする百姓の家のものだ。
「半蔵さま、お前さまの前ですが、大旦那はこういうお客をするのが好きな人で、村のものを集めてはよくお酒盛りよなし。ほんとに、大旦那は気の大きな人だった。」
とお虎が言う。そこには兼吉も桑作も膝《ひざ》をかき合わせている。半蔵は婆さんから受けた盃を飲みほして、それを兼吉にさし、さらに桑作にもさした。
「そりゃ、お前、一度でも吾家《うち》の敷居をまたいだものへは、何か一品ずつ形見が残して置いてあったよ。そういうものがちゃんと用意してあったよ。」と半蔵が言って見せる。
「大旦那はそういう人よなし。」
とお虎婆さんも上きげんで、わざわざその日のために黒々と染めて来たらしい鉄漿《かね》をつけた歯を見せて笑った。この酒好きな婆さんは膳の上に盃を置いた手で、自分の顔をなで回しながら、大旦那の時分の忘れられないことを繰り返した。
次第に半蔵が重ねた盃の酒は顔にも手にも発して来た。その晩は彼もめずらしく酔った。客一同へ蕎麦が出て、ぽつぽつ席を立ちかけるものもあるころには、物を見る彼の目も朦朧《もうろう》としていた。しまいには奥の間の廊下の外にすべり出し、そこに酔いつぶれていて、勝重の介抱に来てくれたのをわずかに覚えているほど酔った。
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第七章
一
例の万国公法の意気で、新時代を迎えるに急な新政府がこれまでの旧《ふる》い暦をも廃し、万国共通の太陽暦に改めたころは、やがて明治六年の四月を迎えた。その時になると、馬籠《まごめ》本陣の吉左衛門なぞがもはやこの世にいないばかりでなく、同時代の旧友であれほどの頑健《がんけん》を誇っていた金兵衛まで七十四歳で亡《な》き人の数に入ったが、あの人たちに見せたらおそらく驚くであろうほどの木曾路《きそじ》の変わり方である。今は四民が平等と見なされ、権威の高いものに対して土下座《どげざ》する旧習も破られ、平民たりとも乗馬、苗字《みょうじ》までを差し許される世の中になって来た。みんな鼻息は荒い。中馬稼《ちゅうまかせ》ぎのものなぞはことにそれが荒く、牛馬の口にばかりついていない。どうかすると荷をつけて街道に続く牛馬の群れは通行をさまたげ、諸人の迷惑にすらなる。なんと言っても当時の街道筋はまだやかましい昔の気風を存していたから、馬士《まご》や牛追いの中には啣《くわ》え煙管《ぎせる》なぞで宿村内を歩行する手合いもあると言って、心得違いのものは取りただすよしの触れ書が回って来たほどだ。下から持ち上げる力の制《おさ》えがたさは、こんな些細《ささい》なことにもよくあらわれていた。これまで、実に非人として扱われていたものまで、大手を振って歩かれる時節が到来した。新たに平民と呼ばれて雀躍《こおどり》するものもある。その仲間入りがまことに許されるなら、貸した金ぐらいは棒引きにすると言って、涙を流してよろこぶものがある。洪水《こうずい》のようにあふれて来たこの勢いを今は何者もはばみ止めることができない。武家の時が過ぎて、一切の封建的なものが総崩《そうくず》れに崩れて行くような時がそれにかわって来た。
本陣、脇《わき》本陣、今は共にない。大前《おおまえ》、小前《こまえ》なぞの家筋による区別も、もうない。役筋《やくすじ》ととなえて村役人を勤める習慣も廃された。庄屋《しょうや》、名主《なぬし》、年寄《としより》、組頭《くみがしら》、すべて廃止となった。享保《きょうほう》以来、宿村の庄屋一人につき玄米五石をあてがわれたが、それも前年度(明治五年)までで打ち切りとした。庄屋名主らは戸長、副戸長と改称され、土地人民に関することはすべてその取り扱いに変わり、輸送に関することは陸運会社の取り扱いに変わった。人馬の継立《つぎた》て、継立てで、多年|助郷《すけごう》村民を苦しめた労役の問題も、その
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