領土までをそこへ投げ出すことを勧め、江戸城の明け渡しに際しても進んで官軍の先頭に立った尾州家に、このことのあるのもまた不思議でもない。
「お父《とっ》さん、ここに別の通知がありますよ。徳川三位中将、名古屋藩知事を仰せ付けられるともありますよ。」
「して見ると、藩知事公かい。もう名古屋のお殿様でもないのかい。」
「まずそうです。人民の問屋も、会所も廃させて置いて、御自分ばかり旧《むかし》に安んずるような、そんなつもりはないのでしょう。」
吉左衛門は半蔵と言葉をかわして見て、忰《せがれ》の言うことにうなずいたが、目にはいっぱい涙をためていた。
七月の来るころには、吉左衛門はもはやたてなかった。中風の再発である。どっと彼は床についていて、その月の半ばにはお民の安産を聞き、今度生まれた孫は丈夫そうな男の子であると聞いたが、彼自身の食は次第に細るばかりであった。そういう日が八月のはじめまで続いた。ついに、おまんや半蔵の看護もかいなく、養生もかなわずであった。彼は先代半六のあとを追って、妻子や孫たちにとりまかれながら七十一歳の生涯《しょうがい》をその病床に終わった。それは八月四日、暮れ六つ時《どき》のことであった。
その夜のうちに、吉左衛門の遺骸《いがい》は裏二階から母屋《もや》の奥の間に移された。栄吉、庄助、つづいて伊之助なぞはこの変事を聞いて、早速《さっそく》本陣へかけつけて来た。中でも、伊之助は福島総管所からのお触状《ふれじょう》により、新政府が産業奨励の趣意から設けられた御国産会所というものへ呼ばれ、その会合から今々帰ったばかりだと言って、息をはずませていた。あわただしくもかけつけて来てくれたこの隣家の主人を見ることは、半蔵にとって一層時を感じさせ、夕日のように沈んで行った父の死を思わせた。
翌朝は早くから、生前吉左衛門の恩顧を受けた出入りの衆が本陣に集まって来て、広い囲炉裏ばたや勝手口で働いた。よろこびにつけ、かなしみにつけ、事あるごとに手伝いに来て、互いに話したり飲み食いしたりするのは、出入りの衆の古くからの慣例《ならわし》である。今は半蔵も栄吉や清助を相手に、継母の意見も聞いて、本陣相応に父を葬らねばならない。彼は平田門人の一人《ひとり》として、この際、神葬を断行したい下心であったが、従来青山家と万福寺との縁故も深く、かつ継母のおまんが希望もあって、しばらく皆の意見に従うことにした。ともかくも、この葬式は父の長い街道生活を記念する意味のものでありたいと彼は願った。なるべく手厚く父を葬りたい。そのことを彼は伊之助の前でも言い、継母にも話した。やがて納棺の用意もできるころには、東西の隣宿から泊まりがけで弔いに来る親戚《しんせき》旧知の人々もある。寿平次、得右衛門は妻籠《つまご》から。かつて半蔵の内弟子《うちでし》として少年時代を馬籠本陣に送ったことのある勝重《かつしげ》は落合から。奥の間の机の上では日中の蝋燭《ろうそく》が静かにとぼった。木材には事を欠かない木曾山中のことで、棺も厚い白木で造られ、その中には仏葬のならわしによるありふれたものが納められた。おまんらが集まって吉左衛門のために縫った経帷子《きょうかたびら》、珠数《じゅず》、頭陀袋《ずだぶくろ》、編笠《あみがさ》、藁草履《わらぞうり》、それにお粂《くめ》が入れてやりたいと言ってそこへ持って来た吉左衛門常用の杖《つえ》。いずれも、あの世への旅人姿のしるしである。おまんはそのそばへ寄って、吉左衛門の掌《てのひら》を堅く胸の上に組み合わせてやった。その時、半蔵はお粂や宗太を呼び寄せ、一緒によく父を見て置こうとした。長い眉《まゆ》、静かな口、大きな本陣鼻、生前よりも安らかな顔をした父がそこに眠っていた。多勢のものが別れを告げに棺の周囲に集まる混雑の中で、半蔵は自分の子供に注意することを忘れなかった。ようやく物心づく年ごろに達して、部屋《へや》のすみに腕を組みながら、じっと祖父の死を考え込むような顔つきをしているのは宗太だ。お粂は、と見ると、これは祖父にかわいがられた娘だけに、姉らしく目のふちを紅《あか》く泣きはらして、奥の坪庭の見える廊下の方へ行って隠れた。
寿平次の妻、お里も九歳になる養子の正己《まさみ》(半蔵の次男)を連れて、妻籠からその夕方に着いた。日が暮れてから、半蔵は村の万福寺住持が代理として来た徒弟僧を奥の間に迎え、人々と共に棺の前に集まって、一しきり読経《どきょう》の声をきいた。吉左衛門が生前の思い出話もいろいろ出る中に、半蔵は父が小前《こまえ》のものに優しかったこと、亡《な》くなる前の三日ほどはほとんど食事も取らなかったこと、にわかに気分のよいという朝が来て、なんでも食って見ると言い出し、木苺《きいちご》の実の黄色なのはもう口へははいるまいかなぞと尋ね、孫たちをそばへ呼び寄せて放さなかったが、それが最後の日であったことを語った。父はお家流をよく書き、書体の婉麗《えんれい》なことは無器用な彼なぞの及ぶところでなかったが、おそらくその父の手筋は読み書きの好きなお粂の方に伝わったであろうとも語った。父はまた、美濃派の俳諧《はいかい》の嗜《たしな》みもあったから、臨終に近い枕《まくら》もとで、父から求めらるるままに、『風俗文選《ふうぞくもんぜん》』の一節を読み聞かせたが、さもあわれ深く父はそれを聞いていて、やがて、「半蔵、おれはもう行くよ」との言葉を残したとも語った。
伊之助は言った。
「そう言えば、吾家《うち》の隠居(金兵衛)もこんなことを言っていましたっけ――いつぞや吉左衛門さんが上の伏見屋へお訪《たず》ねくだすって、大変に長いお話があった。あの時自分は気もつかなかったが、今になって考えて見ると、あれはこの世のお暇乞《いとまご》いにおいでくだすったのだわいッて。」
吉左衛門の遺骸が本陣の門口まで運び出されたのは、翌日の午後であった。寺まで行かないものはその門口で見送るように、と呼ぶ清助の声が起こる。そこには近所のかみさんや婆《ばあ》さんなぞの女達がおもに集まっている。
「お霜|婆《ばあ》。」
「あい。」
「お前も早くおいでや。」
「あい。」
出入りの百姓兼吉のおふくろは人に呼ばれて、あたふたとそこへ走り出た。耳の遠いこの婆さんまでが、ありし日のことを思い出して、今はと見送ろうとするのであろう。その中には、珠数を手にした伊之助の妻のお富もまじっていた。
その時、百姓の桑作は人を分けて、半蔵をさがした。桑作はそこに門火《かどび》を焚《た》いていた一人の若者を半蔵の前へ連れて行った。
「旦那、これはおふき婆(半蔵の乳母《うば》)の孫よなし。長いこと山口の方へ行っていたで、お前さまも見覚えはあらっせまいが、あのおふき婆の孫がこんなに大《でか》くなった。きょうはこれにもお見送りをさしてやっていただきたい。そう思って、おれが連れて来たに。」
と桑作は言った。
間もなく野辺送《のべおく》りの一行は順に列をつくって、寺道の方へ動き出した。高く掲げた一対の白張提灯《しらはりぢょうちん》を案内にして、旧庄屋の遺骸がそのあとに続いた。施主の半蔵をはじめ、亀屋《かめや》栄吉、伏見屋伊之助、梅屋五助、桝田屋《ますだや》小左衛門、蓬莱屋《ほうらいや》新助、旧問屋九郎兵衛、組頭庄助、同じく平兵衛、妻籠本陣の寿平次、脇《わき》本陣の得右衛門なぞは、いずれも青い編笠《あみがさ》に草履ばきで供をした。産後のお民だけは嬰児《あかご》の森夫《もりお》(半蔵の三男)を抱いて引きこもっていたが、おまん、お喜佐、お里、それにお粂も年上の人たちと同じように彼女のみずみずしい髪を飾りのない毛巻きにして、その列の中に加わった。
やがてこの行列が街道を右に折れ、田圃《たんぼ》の間の寺道を進んで、万福寺の立つ小山に近づいたころ、そこまでついて行った勝重は清助と共に、急いで列を離れた。これは寺の方に先回りして一行を待ち受けるためである。万福寺にはすでに近村から到着した会葬者もある。今か今かと待ち受け顔な松雲和尚《しょううんおしょう》が勝重らを迎え入れ、本堂と庫裏《くり》の間の入り口のところに二人《ふたり》の席をつくってくれた。
「それじゃ、勝重さん、帳面方は君に頼みますよ。」
と清助に言われるまでもなく、勝重はそこに古い机を控え、その日の書役《かきやく》を引き受けた。そこは細長い板敷きの廊下であるが、一方は徒弟僧なぞの出たりはいったりする寺の囲炉裏ばたに続き、一方は錆《さ》び黒ずんだ板戸を境にして本堂の方へ続いている。薄暗い部屋《へや》をへだてて、奥まった方の客間も見える。勝重は、その位置にいて、会葬者の上がって来るごとにその名を記《しる》しつけ、吉左衛門が交遊のひろがりを想像した。しばらく待つうちに遺骸も本堂の前に着いて、勝重の周囲には廊下を歩きながらの人たちの扇がそこにもここにも動いた。
時には清助が机の上をのぞきに来る。山口、湯舟沢、落合、それから中津川辺からの会葬者はだれとだれとであろうかというふうに。勝重は帳面を繰って、なんと言っても美濃衆の多いことをさして見せ、わざわざ弔いに見えた美濃の俳友なぞもあることを話したあとで、さらに言葉をついで、
「まあ、清助さん、そう働いてばかりいないで、すこしお休み。わたしは今度馬籠へ来て見て、お師匠さまの子供衆が大きくなったのに驚きましたよ。ほんとに、皆さんが大きくおなりなすった。わたしには一番それが目につきます。お師匠さまの家にお世話になった時分、あのお粂さんなぞはまだわたしの膝《ひざ》にのせて抱いたくらいでしたがねえ。」
こんな話が出た。
そこへうわさをしたばかりの姉弟《きょうだい》が三人づれで寺の廊下を回って来た。中でも、妻籠から来た正己はじっとしていない。これが馬籠のお寺かという顔つきで、久しぶりに一緒になったお粂や宗太を案内に、太鼓のぶらさがった本堂の方へ行き、位牌堂《いはいどう》の方へ行き、故人|蘭渓《らんけい》の描いた本堂のそばの画襖《えぶすま》の方へも行った。松雲和尚の丹精《たんせい》からできた築山風《つきやまふう》の庭の見える回廊の方へも行った。この活発な弟を連れて何度も同じ板の間を踏んで来る姉娘の白足袋《しろたび》も清げに愛らしかった。
儀式の始まる時も近づいた。年老いた金兵衛は寺の方で棺の到着を待ち受けていた一人であるが、その時、伊之助と一緒に方丈を出て、勝重の前を会釈して通った。この隠居は平素よりも一層若々しく見えるくらいの結い立ての髪、剃《そ》り立ての顔で、伊之助に助けられながら本堂への廊下を通り過ぎた。一歩一歩ずつ小刻みに刻んで行くその足もとには無量の思いを託して。
「喝《かつ》。」
式場での弔語の終わりにのぞんで、松雲和尚はからだのどこから出したかと思われるような、だれもがびっくりするような鋭い声を出した。この世を辞し去る旅人の遺骸を前にして、和尚がおくる餞別《せんべつ》は、長い修業とくふうとから来たような禅僧らしいその一語に尽きていた。
式も済み、一同の焼香も済んで、半蔵はその日の会葬者へ礼を述べ、墓地まで行こうという人たちと一緒に本堂を出た。寺の境内にある銀杏《いちょう》の樹《き》のそばの鐘つき堂のあたりで彼は近在帰りの会葬者に別れ、経王石書塔《きょうおうせきしょとう》の文字の刻してある石碑の前では金兵衛にも別れた。山門の外の石段の降り口は小高い石垣《いしがき》の斜面に添うて数体の観音《かんのん》の石像の並んでいるところである。その辺でも彼は荒町や峠をさして帰って行く村の人々に別れた。
小山の傾斜に添うた墓地の方では、すでに埋葬のしたくもできていた。半蔵らはその入り口のところで、迎えに来る下男の佐吉にもあった。用意した場所の深さは何尺、横幅何尺、それだけの深さと横幅とがあれば大旦那《おおだんな》の寝棺を納めるに充分であろうなぞと佐吉は語る。やがて生々《なまなま》しい土のにおいが半蔵らの鼻をついた。そこは青山の先祖をはじめ、十七代も連なり続いた古い家族の眠っているところだ、掘り
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