分まで目がくらむような気がしますよ。」
お民は子供に食わせることを忘れていなかった。彼女はこんな話を打ち切って、また囲炉裏ばたの方へまめまめしく働きに行った。
山家はようやく長い冬ごもりの状態から抜け切ろうとするころである。恵那山《えなさん》の谿谷《けいこく》の方に起こるさかんな雪崩《なだれ》は半蔵が家あたりの位置から望まれないまでも、雪どけの水の音は軒をつたって、毎日のようにわびしく単調に聞こえている。いろいろなことを半蔵に思い出させるのも、石を載せた板屋根から流れ落ちるそのしずくの音だ。眠りがたい一夜をお民のそばに送った後、彼はその翌朝に会所の方を見回りに行った。何事も耳には入れずにある父のことも心にかかりながら、会所の入り口の戸をあけかけていると、ちょうどそこへやって来る伊之助と一緒になった。
「いよいよ会所もおなごりですね。」
そう語り合う二人は、明け渡した城あとでも歩き回るように、がらんとした問屋場の方をのぞきに行った。会所の方の店座敷の戸をも繰って見た。そこの黄色な壁、ここの煤《すす》けた襖《ふすま》、何一つその空虚な部屋で目につくものは、高い権威をもって絶対の屈従をしいられた宿場の過去と、一緒にこの街道に働いた人たちの言葉にも尽くされない辛労とを語らないものはない。
思わず半蔵は伊之助と共に、しばらく会所での最終の時を送った。その時、彼は伊之助の顔をながめながら、静かな声で、感ずるままを語った。彼に言わせると、先年お救い願いを尾州藩に差し出した当時、すでに宿相続をいかにすべきかが一同の問題になったくらいだ。あの時の帳尻《ちょうじり》を見てもわかるように、七か年を平均して毎年百七十両余が宿方の不足になっていた。あの不足が積もって行く上に、それを補って来た宿方の借財が十六口にも上って、利息だけでも年々二百四十四両余を払わねばならなかった。たとい尾州藩のお救いお手当てがあるとしても、この状態を推し進めて行くとしたら、結局滅亡に及ぶかもしれない。宿場にわだかまる多年の弊習がこの行き詰まりを招いた。さてこそ新規まき直しの声も起こって来たのである。これまで自分は一緒にこの街道に働いてくれる人たちと共に武家の奉公を耐《こら》えようとのみ考え、なんでも一つ辛抱せという方にばかり心を向けて来たが、問屋も会所もまた封建時代の遺物であると思いついて、いささか悟るところがあった。上御一人《かみごいちにん》ですら激しい動きに直面したもうほどの今の時に、下のものがそう静かにしていられるはずもないと。
伊之助は、爪《つめ》をかみながら、黙って半蔵の言うことを聞いていた。半蔵の耳はまた、やや紅《あか》かった。
「しかし、伊之助さんも御苦労さまでした。お互いに長い御奉公でした。」
とまた半蔵は言い添えた。
もはや諸道具一切は伝馬所の方へ運び去られている。半蔵は下男の佐吉を呼んで、戸をしめ、鍵《かぎ》をかけることを言いつけて置いて、やがて伊之助と共に会所の前を立ち去った。
六
平田延胤《ひらたのぶたね》の木曾街道を通過したのは、馬籠ではこの宿場改革の最中であった。延胤は東京からの帰り路《みち》を下諏訪《しもすわ》へと取り、熱心な平田|篤胤《あつたね》没後の門人の多い伊那の谷を訪《おとな》い、清内路《せいないじ》に住む門人原|信好《のぶよし》の家から橋場を経て、小昼《こびる》(午後三時)のころに半蔵の家に着いた。しばらく木曾路の西のはずれに休息の時を送って行こうとしていたのである。もっとも、この旅は延胤|一人《ひとり》でもない。門下の随行者もある。伊那からそのあとを追い慕って、せめて馬籠まではと言いながら見送って来た南条村の館松縫助《たてまつぬいすけ》のような人もある。
延胤は半蔵が師|鉄胤《かねたね》の子息で、故翁篤胤の孫に当たる。平田同門のものは日ごろ鉄胤のことを老先生と呼び、延胤を若先生と呼んでいる。思いがけなくもその人を見るよろこびに加えて、一行を家に迎へ入れ、自分の田舎《いなか》を見て行ってもらうことのできるというは、半蔵にとって夢のようであった。木曾は深い谿《たに》とばかり聞いていたのにこんな眺望《ちょうぼう》のひらけた峠の上もあるかという延胤を案内しながら、半蔵は西側の廊下へ出て、美濃《みの》から近江《おうみ》の方の空のかすんだ山々を客にさして見せた。その廊下の位置からは恵那山につづく幾つかの連峰全部を一目に見ることはできなかったが、そこには万葉の古い歌にある御坂《みさか》も隠れているという半蔵の話が客をよろこばせた。彼は上段の間へ人々を案内して、その奥まった座敷で、延胤が今京都をさして帰る途中にあることから、かねて門人|片桐春一《かたぎりしゅんいち》を中心に山吹社中の発起になった条山《じょうざん》神社を伊那の山吹村に訪い、そこに安置せられた国学四大人の御霊代《みたましろ》を拝し、なお、故翁の遺著『古史伝』の上木頒布《じょうぼくはんぷ》と稿本全部の保管とに尽力してくれた伊那の諸門人の骨折りをねぎらいながら、行く先で父鉄胤に代わって新しい入門者に接して来たことなぞを聞いた。
おまんやお民も茶道具を運びながらそこへ挨拶《あいさつ》に出た。半蔵はそのそばにいて、これは母、これは妻と延胤に引き合わせた。彼は先師の孫にも当たる人に自分の継母や妻を引き合わせることを深いよろこびとした。めずらしい客と聞いてよろこぶお粂《くめ》と宗太も姉弟《きょうだい》らしく手を引き合いながら、着物を着かえたあとの改まった顔つきで、これも母親のうしろからお辞儀に出た。半蔵の娘もすでに十四歳、長男の方は十二歳にもなる。
延胤も旅を急いでいた。これから、中津川泊まりで行こうという延胤のあとについて、一緒に中津川まで行くことを半蔵に勧めるのも縫助だ。そういう縫助も馬籠まで来たついでに、同門の景蔵の家まで見送りたいと言い出す。これには半蔵も心をそそられずにはいられなかった。早速《さっそく》彼は隣家の伏見屋へ下男の佐吉を走らせ、伊之助にも同行のよろこびを分けようとした。伊之助は上の伏見屋の方にいて、そのために手間取れたと言いわけをしながら、羽織袴《はおりはかま》でやって来た。
「若先生です。」
その引き合わせの言葉を聞くと、日ごろ半蔵のうわさによく出る平田先生の相続者とはこの人かという顔つきで、伊之助も客に会釈《えしゃく》した。
一同中津川行きのしたくができた。そこで、出かけた。師鉄胤のうわさがいろいろと出ることは、半蔵の歩いて行く道を楽しくした。こんな際に、中央の動きを知ることは、彼にとっての何よりの励ましというものだった。彼は延胤一行の口から出ることを聞きもらすまいとした。過ぐる年の十月十三日に旧江戸城にお着きになった新帝にもいったん京都の方へ還御《かんぎょ》あらせられたと聞く。それは旧冬十二月八日のことであったが、さらに再度の東幸が来たる三月のはじめに迫っている。それを機会に、師鉄胤もお供を申し上げながら、一家をあげて東京の方へ移り住む計画であるという。延胤が旅を急いでいるのもそのためであった。飽くまで先師の祖述者をもって任ずる鉄胤の方は参与の一人として、その年の正月からは新帝の侍講に進み、神祗官《じんぎかん》の中心勢力をかたちづくる平田派の学者を率いて、直接に新政府の要路に当たっているとか。今は師も文教の上にあるいは神社行政の上に、この御一新の時代を導く年老いた水先案内である。全国の代表を集めて大いに国是《こくぜ》を定め新制度新組織の建設に向かおうとするための公議所が近く東京の方に開かれるはずで、その会議も師のような人の体験と精力とを待っていた。
延胤は関東への行幸のことについてもいろいろと京都方の深い消息を伝えた。かくも諸国の人民が新帝を愛し奉り、競ってその御一行を迎えるというは理由のないことでもない。従来、主上と申し奉るは深い玉簾《ぎょくれん》の内にこもらせられ、人間にかわらせたもうようにわずかに限りある公卿《くげ》たちのほかには拝し奉ることもできないありさまであった。それでは民の御父たる天賦の御職掌にも戻《もと》るであろう。これまでのように、主上の在《いま》すところは雲上と言い、公卿たちは雲上人ととなえて、龍顔は拝しがたいもの、玉体は寸地も踏みたまわないものと、あまりに高く言いなされて来たところから、ついに上下隔絶して数百年来の弊習を形造るようになった。今や更始一新、王政復古の日に当たり、眼前の急務は何よりまずこの弊習を打ち破るにある。よろしく本朝の聖時に則《のっ》とらせ、外国の美政をも圧するの大英断をもって、帝自ら玉簾の内より進みいでられ、国々を巡《めぐ》らせたまい、簡易軽便を本として万民を撫育《ぶいく》せられるようにと申上げたものがある。さてこそ、この未曾有《みぞう》の行幸ともなったのである。
そればかりではない。もっと大きな事が、この行幸のあとに待っていた。皇居を京都から東京に還《うつ》し、そこに新しい都を打ち建てよとの声が、それだ。もし朝廷において一時の利得を計り、永久治安の策をなさない時には、すなわち北条《ほうじょう》の後に足利《あしかが》を生じ、前姦《ぜんかん》去って後奸《こうかん》来たるの覆轍《ふくてつ》を踏むことも避けがたいであろう。今や、内には崩《くず》れ行く中世的の封建制度があり、外には東漸するヨーロッパの勢力がある。かくのごとき社会の大変態は、開闢《かいびゃく》以来、いまだかつてないことであろうとは、もはや、だれもがそれを疑うものもない。この際、深くこの国を注目し、世界の大勢をも洞察《どうさつ》し、国内のものが同心合体して、太陽はこれからかがやこうとの新しい希望を万民に抱《いだ》かせるほどの御実行をあげさせられるようにしたい。それには、非常な決心を要する。眼前にある些少《さしょう》の故障を懸念《けねん》して、この遷都の機会をうしなったら、この国の大事もついに去るであろう――実際、こんなふうに言わるるほどの高い潮《うしお》がやって来ていた。
一緒に街道を踏んで峠を降りて行く延胤に言わせると、遷都の説はすでに一、二の国学者先輩の書きのこしたものにも見える。それがここまで来て、言わば東幸の形で遷都の実をあげる機運を迎えたのだ。これには伊之助も耳を傾けていた。
一同の行く先は言うまでもなく中津川の本陣である。ちょうど半蔵の友人景蔵も、香蔵も、共に京都の方から帰って来ているころで、景蔵の家には、めずらしく親しい人たちの顔がそろった。そこには落合から行った半蔵の弟子《でし》勝重《かつしげ》のような若い顔さえ見いだされた。そしてその東美濃の町に延胤を迎えようとする打ちくつろいだ酒盛《さかも》りがあった。その晩は伊之助もめずらしく酔って、半蔵と共に馬籠をさして帰って来たころは夜も深かった。
三か月ほど後に、中津川の香蔵が美濃を出発し、東京へとこころざして十曲峠《じっきょくとうげ》を登って来たころは、旅するものの足が多く東へ東へと向かっていた。今は主上も東京の方で、そこに皇居を定めたまい、平田家の人々も京都にあった住居《すまい》を畳《たた》んで、すでに新しい都へ移った。
旅を急ぐ香蔵に門口から声をかけられて見ると、半蔵の方でもそう友人を引き留めるわけに行かない。香蔵は草鞋《わらじ》ばきのまま、本陣の玄関の前から表庭の植木の間を回って、葉ばかりになった牡丹《ぼたん》の見える店座敷の軒先に来て腰掛けた。そこに笠《かさ》を置いて、半蔵が勧める別れの茶を飲んだ。
文字どおり席の暖まるに暇《いとま》のないような香蔵は、師のあとを追うのに急で、地方の問屋廃止なぞを問題としていない。半蔵はひどく別れを惜しんだ。野尻《のじり》泊まりで友人が立って行った後、彼は大急ぎで自分でもしたくして、木曾福島の旅籠屋《はたごや》までそのあとを追いかけた。
とうとう、藪原《やぶはら》の先まで追って行った。五日過ぎには彼は友人の後ろ姿を見送って置いて、藪原からひとり街道を帰って来る人であった。旧暦五月の日の光
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