ことは、だんだん遠い夢物語のようになって行った。それに、宿内の年寄役、組頭、皆それは村民の入札で定めたのが役替《やくが》えの時の古い慣例で、役替え札開きの日というがあり、礼高で当選したものが宿役人を勤めたのである。そのおりの当選者が木曾福島にある代官地へのお目見えには、両旦那様をはじめ、家老、用人、勘定方から、下は徒士《かち》、足軽、勘定下組の衆にまでそれぞれ扇子なぞを配ったのを見ても、安永《あんえい》年代のころにはまだこの選挙が行なわれ、したがって競争も激しかったことがわかる。いつのまにか、これとてもすたれた。年寄役も、組頭も、皆世襲に変わった。いかに不向きでもその家に生まれ、またはその家から分かれたものは自然に人から敬われ、旦那衆と立てられるようになって来た。あだかも江戸あたりの町人仲間に、株というものが固定してしまったように。
この旦那衆だ。中にはいろいろな人がある。駅逓司《えきていし》の趣意はまだ皆の間に徹しないかして、一概にこれを過激な改革であるとなし、自分らの利害のみを考えるものも出て来た。古い宿場の御伝馬役として今までどおりのわがままも言えなくなるとみて取った人たちの助太刀《すけだち》は、一層その不平の声を深めた。
「これは宿場の盛衰にもかかわることだ。伏見屋の旦那あたりが先に立って、もっと骨を折ってくだすってもいい。」
旧御伝馬役の中には、こんなことを言い出したものもある。
民意の開発に重きを置いた尾州藩中の具眼者がまず京都駅逓司の方針に賛成したことは不思議でもない。このことが尾州領内の木曾地方に向かって働きかけるようになって行ったというのも、これまた不思議でもない。京都駅逓司の新方針によると、たとい諸藩の印鑑で保証する送り荷たりとも、これまでのように問屋場を素通りすることは許されない。公用藩用の名にかこつけて貫目を盗むことも許されない。袖《そで》の下もきかない。荷物という荷物の貫目は公私共に各問屋場で公平に改められることになった。
東京と京都との間をつなぐ木曾街道の中央にあって、多年宿場に衣食した馬籠の御伝馬役の人たちはこの改革に神経をとがらせずにはいられなかったのである。彼らの多くは、継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷村民へ押しつけるような従来の弊習に慣れている。諸大名諸公役の大げさな御通行のあったごとに、すくなくも五、六百人以上の助郷村民は木曾四か宿に徴集されて来て朝勤め夕勤めの役に服したが、その都度《つど》割りのよい仕事にありつき、なおそのほかに宿方の補助を得ていたのも彼らである。街道で身代を築き上げた旦那衆と同じように、彼らもまた宿場全盛のころのはなやかな昔を忘れかねている。宿駅と助郷村々との課役を平等にせよというような駅逓司の方針は彼らにとってこの特権から離れることにも等しかった。
旧御伝馬役の一人に小笹屋《こざさや》の勝七がある。この人なぞは伊之助の意見を聞こうとして、ある夜ひそかに伏見屋の門口をたたいたくらいだ。
「まあ、本陣へ行って聞いてくれ。」
それが伊之助の答えだった。
「オッと、伏見屋の旦那、それはいけません。宿の御伝馬役と在の助郷とはわけが違いますぞ。桝田屋の旦那でも、蓬莱屋《ほうらいや》の旦那でも、皆おれたちの肩を持ってくださる。お前さまのような人は、もっと宿内のものをかわいがってくだすってもいい。」
そう勝七が言い立てても、伊之助は隣の国から来た養子の身ということを楯《たて》にして、はっきりした返事をしなかった。同じ旦那衆の一人でも、伊之助だけは中庸の道を踏もうとしている。この「本陣へ行って聞いてくれ」が、いつでも彼の奥の手だ。
十二月の下旬には、この宿場ではすでに幾度か雪を見た。時ならない尾州藩の一隊が七、八十人の同勢で、西から馬籠昼食の予定で街道を進んで来た。木曾福島行きの御連中である。ちょうど余日もすくない年の暮れにあたり、宿内にあり合わせた人馬もあちこちと出払った時で、特に荷物の継立《つぎた》てを頼むと言われても手が足りなかった。にわかなことで、助郷も間に合わない。宿駅改革の主旨にもとづく課役の平等は旦那衆の家へも回って行く。ともかくも交通機関の整理が完成されるまで、街道に居住するものはもとより、沿道付近の村民は皆各人が助郷たるの意気込みをもって、一軒につき一人ずつは出てこの非常時に当たれとある。こうなると、町人と言わず、百姓と言わず、宿内で人足を割り当てられたものは継立て方を助けねばならなかった。
ある旦那衆などは、もうたまらなくってどなった。
「何。われわれの家からそんな人足なぞに出られるか。本陣へ行って聞いて来い。」
父吉左衛門もめっきり健康を回復して来たので、それに力を得て、人足のさしずをするために本陣を出ようとしていたのは半蔵である。彼はすでに隣家の伊之助を通して、町内の旦那衆や旧御伝馬役の意向を聞いていた。
「もちろん。」
半蔵の態度がそれを語った。あとは自分でも人足の姿に身を変え、下男の佐吉に言い付けて裏の木小屋から「せいた」(木曾風な背負子《しょいこ》)を持って来させた。細引《ほそびき》まで用意した。彼は町内の旦那衆なぞから出る苦情を取り合わなかった。自分でもその日の人足の中にまじり、継立て方を助けるようにして、それを一切の答えに代えようとしていた。
「旦那、お前さまも出《で》させるつもりか。」
と佐吉はそこへ飛んで来て言った。
「おれが行かず。お前さまの代わりにおれが行かず。一軒のうちでだれか一人出ればそれでよからずに。」
とまた佐吉が言った。
しかし、半蔵はもう背中に半蓑《はんみの》をつけて、敷居の外へ一歩《ひとあし》踏み出していた。尾州藩の一隊は幾組かに分かれて、本陣に昼食の時を送っている家中衆もある。幾本かの鎗《やり》は玄関の式台のところに持ち込んである。あの客の接待には清助というものがあって、半蔵もその方には事を欠かなかった。
「お民、頼んだぜ。」
その言葉を妻に残して置いて、彼は客よりも先に自分の家の表門を出た。
半月交代の問屋場は向こう上隣りの九郎兵衛方で開かれるころであった。問屋の前あたりには、思い思いに馬を引いて来る宿内の馬方もある。順番に当たった人足たちが上町からも下町からも集まって来ている。
「本陣の旦那、よい馬は今みんな出払ってしまった。いくら狩り集めようとしても、女馬か、あんこ馬しかない。」
そんなことを言って、人馬の間を分けながらあちこちと走り回る馬指《うまざし》もある。
「きょうはおれもみんなの仲間入りだぞ。おれにも一つ荷物を分けてくれ。」
この半蔵の言葉は人足指《にんそくざし》ばかりでなく、そこに働いている問屋の主人九郎兵衛をも驚かした。人足一人につき荷物七貫目である。半蔵はそれを「せいた」に堅く結びつけ、半蓑の上から背中に担《にな》って、日ごろ自分の家に出入りする百姓の兼吉らと共に、チラチラ雪の来る中を出かけた。
「ホウ、本陣の旦那だ。」
とわけもなしにおもしろがる人足仲間もある。半蔵の方を盗むように見て、笠《かさ》をかぶった首を縮め、くすくす笑いながら荷物を背負《しょ》って行く百姓もある。
「これからお前さま、妻籠《つまご》まで――二里の山道はえらいぞなし。」
兼吉の言い草だ。
峠の上から一石栃《いちこくとち》(俗に一石)を経て妻籠までの間は、大きな谷の入り口に当たり、木曾路でも深い森林の中の街道筋である。過ぐる年月の間、諸大名諸公役らの大きな通行があるごとに、伊那方面から徴集される村民が彼らの鍬《くわ》を捨て、彼らの田園を離れ、木曾下四か宿への当分助郷、あるいは大助郷と言って、山蛭《やまびる》や蚋《ぶよ》なぞの多い四里あまりのけわしい嶺《みね》の向こうから通って来たのもその山道である。
背中にしたは、なんと言っても慣れない荷だ。次第に半蔵は連れの人足たちからおくれるようになった。荷馬の歩みに調子を合わせるような鈴音からも遠くなった。時には兼吉その他の百姓が途中に彼を待ち合わせていてくれることもある。平素から重い物を背負い慣れた肩と、山の中で働き慣れた腰骨とを持つ百姓たちとも違い、彼は手も脚《あし》も震えて来た。待ち受けていた百姓たちはそれを見ると、さかんに快活に笑って、またさっさと先へ歩き出すというふうだ。
その日ほど彼も額からにじみ出る膏《あぶら》のような冷たい汗を流したことはない。どうかすると、降って来る小雪が彼の口の中へも舞い込んだ。年の暮れのことで、凍り道にも行き悩む。熊笹《くまざさ》を鳴らす勁《つよ》い風はつれなくとも、しかし彼は宿内の小前《こまえ》のものと共に、同じ仕事を分けることをむしろ楽しみに思った。また彼は勇気をふるい起こし、道を縦横に踏んで、峠の上で見つけて来た金剛杖《こんごうづえ》を力に谷深く進んで行った。ようやく妻籠手前の橋場というところまでたどり着いて、あの大橋を渡るころには、後方からやって来た尾州藩の一隊もやがて彼に追いついた。
五
明治二年の二月を迎えるころは、半蔵らはもはや革新潮流の渦《うず》の中にいた。その勢いは、一方に版籍奉還奏請の声となり、一方には神仏|混淆《こんこう》禁止の叫びにまで広がった。しかし、それがまだ実現の運びにも至らないうちに、交通の要路に当たるこの街道筋には早くもいろいろなことがあらわれて来た。
木曾福島の関所もすでに崩《くず》れて行った。暮れに、七、八十人の尾州藩の一隊が木曾福島をさしてこの馬籠峠の上を急いだは、実は同藩の槍士隊《そうしたい》で、尾州公が朝命を受け関所の引き渡しを山村氏に迫る意味のものであったことも、後になってわかった。山村家であの関所を護《まも》るために備えて置いてあった大砲二門、車台二|輛《りょう》、小銃二十|挺《ちょう》、弓|十張《とはり》、槍《やり》十二筋、三つ道具二通り、その他の諸道具がすべて尾州藩に引き渡されたのは、暮れの二十六日であった。その時の福島方の立ち合いは、白洲《しらす》新五左衛門と原佐平太とで、騎馬組一列、小頭《こがしら》足軽一統、持ち運びの中間小者《ちゅうげんこもの》など数十人で関所を引き払った。もっとも、尾州方の依頼で騎馬組七人だけは残ったが、二月六日にはすでに廃関が仰せ出された。
福島代官所の廃止もそのあとに続いた。山村氏が木曾谷中の支配も当分立ち合いの名儀にとどまって、実際の指揮はすでに福島興禅寺を仮の本営とする尾州|御側用人《おそばようにん》吉田猿松《よしださるまつ》の手に移った。多年山村氏の配下にあった家中衆も、すべてお暇《いとま》を告げることになり、追って禄高《ろくだか》等の御沙汰《ごさた》のある日を待てと言われるような時がやって来た。
木曾谷の人民はこんなふうにして新しい主人公を迎えた。福島の代官所もやがて総管所と改められるころには、御一新の方針にもとづく各宿駅の問屋の廃止、および年寄役の廃止を告げる総管所からのお触れが半蔵のもとにも届いた。それには人馬|継立《つぎた》ての場所を今後は伝馬所と唱えるはずである。ついては二名の宿方総代を至急福島へ出頭させるようにとも認《したた》めてある。もはや、革新につぐ革新、破壊につぐ破壊だ。
「お母《っか》さん、いよいよ問屋も御廃止ということになりました。」
「そうだそうな。わたしはお民からも聞いたよ。」
「会所もいよいよ解散です。年寄役というものも御廃止です。」
半蔵と継母のおまんとはこんな言葉をかわしながら、互いの顔を見合わせた。
「さっき、わたしはお民とも相談したよ。こんな話を聞いたらあのお父《とっ》さんはきっとびっくりなさる。まあ、お前にも言って置くが、このことはお父さんの耳へは入れないことにせまいか。」
とおまんが言い出した。
さすがに賢い継母も一切を父吉左衛門には隠そうと言うほど狼狽《ろうばい》していた。その年の正月にはおくればせながら父も古稀《こき》の祝いを兼ねて、病中世話になった親戚《しんせき》知人のもとへしるしばかりの蕎麦《そば》を配
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