松下千里は見えそうもないので、家事にかこつけて疲れを休めに帰って行く宿役人もある。例の会所の店座敷にはひとりで気をもむ伊之助だけが残った。本陣付属の問屋場もにわかに閑散になって、到着荷物の順を争うがやがやとした声も沈まって行った時だ。隣宿|妻籠《つまご》からの二人の客がそこへ見えた。妻籠本陣の寿平次と、脇《わき》本陣の得右衛門《とくえもん》とだ。
「やれ、やれ、これでわたしたちも安心した。吉左衛門さんの病気もあの調子で行けば、まず峠を越したようなものです。」
そういう妻籠の連中の声を聞くと、伊之助はその店座敷の一隅《いちぐう》に客の席をつくるほど元気づいた。同じ宿駅の勤めに従いながら、寿平次らがすこしも疲れたらしい様子のないには、これにも彼は感心した。連日の疲労を休める暇もなく、本陣への病気見舞いに来て、今その帰りがけであるということも、彼をよろこばせた。
「まあ、座蒲団《ざぶとん》でも敷いてください。ここは会所で何もおかまいはできませんが、お茶でも一つ飲んで行ってください。」と言いながら、伊之助は手をたたいて、会所の小使いを呼んだ。熱い茶の用意を命じて置いて、吉左衛門のうわさに移った。
「なんと言っても、馬籠のお父《とっ》さん(吉左衛門のこと)にはねばり強いところがありますね。」と言い出すのは寿平次だ。
「そりゃ、寿平次さん、何十年となくこの街道の世話をして来た人で、からだの鍛えからして違いますさ。」と言うのは得右衛門だ。「どうもあの病人は、寝ていても宿場のことを心配する。ああ気をもんじゃえらい。自分の病気から、半蔵の勤めぶりにまで響くようじゃ申しわけがない、青山親子に怠りがあると言われてはまことに済まないなんて、吉左衛門さんはどこまでも吉左衛門さんらしい。」
「へえ、そんなお話が出ましたか。」と伊之助は二人の話を引き取った。「なにしろ、看護も届いたんです。あれで半蔵さんは七日か八日もろくに寝なかったでしょう。よくからだが続きましたよ。わたしはあの人を疲れさせないようにと思って、会所の事務なぞはなるべく自分で引き受けるようにしていましたが、そこへあの凱旋《がいせん》、凱旋でしょう。助郷《すけごう》の人馬は滞る。御剪紙《おきりがみ》は来る。まったく一時は目を回してしまいました。」
「いや、はや、今度の御通行には妻籠でも心配しましたよ。」と得右衛門は声を潜めながら、「何にしろ、戦《いくさ》に勝って来た勢いで、鼻息が荒いや。あれは先月の二十八日でした。妻籠へは鍬野《くわの》様からお知らせがあって、あすお着きになるおおぜいの御家中方へは、宿々でもごちそうする趣だから、妻籠でもその用意をするがいいなんて、そんなことを言って来ましたっけ。こちらはおおぜいの御通行だけでも難渋するところへもって来て、ごちそうの用意さ。大まごつきにも何にも。あのお知らせは馬籠へもありましたろう。」
「ありました。」と伊之助はそれを承《う》けて、「なんでも最初のお知らせのあった時は、お取り持ちのしかたが足りないとでも言われるのかぐらいに思っていました。奥筋の方でもあの御家中方には追い追い難儀をしたとありましたが、その意味がはっきりしませんでした。そこへ、また二度目の知らせがある。今度は飛脚で、しかも夜中にたたき起こされる。あの時ばかりは、わたしもびっくりしましたよ。上《かみ》四か宿の内で、宿役人が一人《ひとり》に女中が一人手打ちにされて、首を二つ受け取ったと言うんでしょう。」
「その話さ。三留野《みどの》あたりの旅籠屋《はたごや》じゃ、残らず震えながらお宿をしたとか聞きましたっけ。」と得右衛門が言う。
「待ってくださいよ。」と伊之助は思い出したように、「実は、あとでわたしも考えて見ました。これには何か子細があります。凱旋の酒の上ぐらいで、まさかそんな乱暴は働きますまい。福島辺は今、よほどごたごたしていて、官軍の迎え方が下《しも》四か宿とは違うんじゃありますまいか。その話をわたしは吾家《うち》の隠居にしましたところ、隠居はしばらく黙っていました。そのうちに、あの隠居が何を言い出すかと思いましたら、しかし街道の世話をする宿役人を手打ちにするなんて、はなはだもってわがままなしかただ、いくら官軍の天下になったからって、そんなわがままは許せない、ですとさ。」
「いや、その説にはわたしも賛成だ。」と寿平次は言った。「君のところの老人は金をもうけることにも抜け目がないが、あれでなかなか奇骨がある。」
奥州から越後の新発田《しばた》、村松、長岡《ながおか》、小千谷《おぢや》を経、さらに飯山《いいやま》、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍からそこへ帰って来た人がある。とがった三角がたの軍帽をかぶり、背嚢《はいのう》を襷掛《たすきが》けに負い、筒袖《つつそで》を身につけ、脚絆草鞋《きゃはんわらじ》ばきで、左の肩の上の錦《にしき》の小片《こぎれ》に官軍のしるしを見せたところは、実地を踏んで来た人の身軽ないでたちである。この人が荒町《あらまち》の禰宜《ねぎ》だ。腰にした長い刀のさしかたまで、めっきり身について来た松下千里だ。
千里は組頭庄助その他の出迎えのものに伴われて、まず本陣へ無事帰村の挨拶《あいさつ》に寄り、はじめて吉左衛門の病気を知ったと言いながら会所へも挨拶に立ち寄ったのであった。
「ヨウ、禰宜さま。」
その声は、問屋場の方にいる栄吉らからも、会所を出たりはいったりする小使いらの間からも起こった。軍帽もぬぎ、草鞋の紐《ひも》もといて、しばらく会所に休息の時を送って行く千里の周囲には、会津戦争の話を聞こうとする人々が集まった。その時まで店座敷に話し込んでいた寿平次や得右衛門までがまたそこへすわり直したくらいだ。
さすがに千里の話はくわしい。この禰宜が越後口より進んだ一隊に付属する兵粮方《ひょうろうかた》の一人として、はじめて若松城外の地を踏んだのは九月十四日とのことである。十九日未明には、もはや会津方の三人の使者が先に官軍に降《くだ》った米沢藩《よねざわはん》を通して開城降伏の意を伝えに来たとの風聞があった。それらの使者がいずれも深い笠《かさ》をかぶり、帯刀も捨て、自縛して官軍本営の簷下《のきした》に立たせられた姿は実にかわいそうであったとか。その時になると、白河口《しらかわぐち》よりするもの、米沢口よりするもの、保成口《ぼなりぐち》、越後口よりするもの、官軍参謀の集まって来たものも多く、評議もまちまちで、会津方が降伏の真偽も測りかねるとのうわさであった。翌二十日にはさらに会津藩の鈴木|為輔《ためすけ》、川村三助の両人が重役の書面を携えて国情を申し出るために、通路も絶えたような城中から進んで来た。彼千里はその二人の使者が兵卒の姿に身を変え、背中には大根を担《にな》って、官軍の本営に近づいて来たのを目撃したという。味方も敵も最前線にあるものはまだその事を知らない。その日は諸手《しょて》の持ち場持ち場からしきりに城中を砲撃し、城中からも平日よりははげしく応戦した。二十二日が来た。いよいよ諸口の官兵に砲撃中止の命令の伝えられる時が来た。朝の八時ごろには約束のように追手門の外へ「降参」としるした大旗の建つのを望んだともいう。
「いや、戦地の方へ行って見て、自分の想像と違うことはいろいろありました。同じ官軍仲間でも競争のはげしいには、これにもたまげましたね。どこの兵隊は手ぬるいの、どこの兵隊はまるで戦争を見物してるのッて、なかなか大やかまし。一緒に戦争するのはいやだなんて、しまいまで仲の悪かった味方同志のものもありましたよ。あれは九月の十九日でした、米沢藩の兵が着いたことがありました。ところがこの米沢兵と来たら、七連銃の隊もあるし、火繩仕掛《ひなわじか》けの三十目銃の隊もあるし、ミンベール銃とかの隊もある。大牡丹《おおぼたん》、小牡丹、いれまざりだ。おまけに木綿《もめん》の筒袖《つつそで》で、背中には犬の皮を背負《しょ》ってる。さあ、みんな笑っちまって、そんな軍装の異様なことまでが一つ話にされるという始末でしょう。ちょっとした例がそれですよ。」
気の置けない郷里の人たちを前にしての千里の土産話《みやげばなし》には、取りつくろったところがない。この禰宜はただありのままを語るのだと言って、さらにうちとけた調子で、
「これはまあ、大きな声じゃ言われないが、戦地の方でわたしも聞き込んで来たことがあります。土佐あたりの人に言わせると、今度の戦争は諸国を統一する御主旨でも、勝ち誇って帰る各藩有力者の頭をだれが抑《おさ》えるか。そういうことを言っていました。七百年来も武事に関しないお公家《くげ》さまが朝廷に勢力を占めたところで、所詮《しょせん》永続《ながつづ》きはおぼつかない。きっと薩摩《さつま》と長州が戦功を争って、不和を生ずる時が来る。そうなると、元弘《げんこう》、建武《けんむ》の昔の蒸し返しで、遠からずまた戦乱の世の中となるかもしれない。まあ、われわれは高知の方へ帰ったら、一層兵力を養って置いて、他日真の勤王をするつもりですとさ。ごらんなさい――土佐あたりの人はそんな気で、会津戦争に働いていましたよ。そりゃ一方に戦功を立てる藩があれば、とかく一方にはそれを嫉《ねた》んで、窮《こま》るように窮るようにと仕向ける藩が出て来る。こいつばかりは訴えようがない。そういうことをよく聞かされました。土佐もあれで今度の戦争じゃ、だいぶ鼻を高くしていますからね。」
こんな話をも残した。
千里が荒町の方へ帰って行った後、得右衛門と寿平次とは互いに顔を見合わせていて、容易に腰を持ち上げようとしない。禰宜の置いて行った話は妙に伊之助をも沈黙させた。
「さすがに、会津は最後までやった。」と得右衛門は半分ひとりごとのように言って、やがて言葉の調子を変えて、
「そう言えば、今の禰宜さまの話さ。どうでしょう、伊之助さん、あの禰宜さまが土佐の人から聞いて来たという話は。」
伊之助は即座に答えかねていた。
「さあ、ねえ。」とまた得右衛門は伊之助の返事を催促するように、「半蔵さんならなんと言いますかさ。この世の中が遠からずまた大いに乱れるかもしれないなんて、そんなことを言われたんじゃ、実際わたしたちはやりきれない。武家の奉公はもうまッぴら。」
「得右衛門さん、」と伊之助は力を入れて言った。「半蔵さんの言うことなら、わたしにはちゃんとわかってます。あの人なら、そう薩摩《さつま》や長州の自由になるもんじゃないと言いましょう。今度の復古は下からの発起ですから、人民の心に変わりさえなければ、また武家の世の中になるようなことは決してないと言いましょう。」
「どうです、寿平次さん、君の意見は。よっぽど考うべき時世ですね。」と得右衛門が言う。
「わたしですか。わたしはまあ高見の見物だ。」
寿平次はその調子だ。
四
東北戦争――多年の討幕運動の大詰《おおづめ》ともいうべき戊辰《ぼしん》の遠征――その源にさかのぼるなら、開国の是非をめぐって起こって来た安政大獄あたりから遠く流れて来ている全国的の大争いが、この戦争に運命を決したばかりでなく、おそらく新しい時代の舞台はまさにこの戦争から一転するだろうとさえ見えて来た。
当時、この日の来るのを待ち受けていた人たちのことについては、実にいろいろな話がある。阿島の旗本の家来で国事に心を寄せ、王室の衰えを慨《なげ》くあまりに脱籍して浪人となり、元治《げんじ》年代の長州志士らと共に京坂の間を活動した人がある。たまたま元治|甲子《きのえね》の戦さが起こった。この人は漁夫に変装して日々|桂川《かつらがわ》に釣《つ》りを垂《た》れ、幕府方や会津桑名の動静を探っては天龍寺にある長州軍の屯営《とんえい》に通知する役を勤めた。その戦さが長州方の敗退に終わった時、巣内式部《すのうちしきぶ》ら数十人の勤王家と共に幕吏のために捕えられて、京都六角の獄に投ぜられた。後に、この人は許されたが、王政復古を聞くと同時によろこびのあまりにか、精神に異状を来たしてしまったという
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