られなかった。伊那《いな》の谷あたりを中心にして民間に起こって来ている実行教(富士講)の信徒が、この際、何か特殊な勤倹力行と困苦に堪《た》えることをもって天地の恩に報いねばならないということを言い出し、一家全員こぞって種々《さまざま》な難行事を選び、ちいさな子供にまで、早起き、はいはい、掃除《そうじ》、母三拝、その他|飴菓子《あめがし》を買わぬなどの難行事を与えているようなあの異常な信心ぶりを考えて見ることもある。これにも驚かずにはいられなかった。
しかし、彼は養父の金兵衛とも違い、隣家の半蔵と共になんとかしてこのむつかしい時を歩もうとするだけの若さを持っていた。豊太閤《ほうたいこう》の遺徳を慕うあの京大坂の大町人らが徳川幕府打倒の運動に賛意を表し、莫大《ばくだい》な戦費を支出して、新政府を助けていると聞いては、それを理解するだけの若さをも持っていた。いかに言っても、彼は受け身に慣れて来た町人で、街道を吹き回す冷たい風から立ちすくんでしまう。その心から、絶えず言いあらわしがたい恐怖と不安とを誘われていた。
夕飯と入浴とをすました後、伊之助は峠の組頭が置いて行った例の軸物を抱いて、広い囲炉裏ばたの片すみから二階への箱梯子《はこばしご》を登った。
「お父《とっ》さん。」
と声をかけて置いて、彼は二階の西向きの窓に近く行った。提灯《ちょうちん》でもつけて水をくむらしい物音が隣家の深い井戸の方から、その窓のところに響けて来ていた。
「お父さん、」とまた彼は窓に近い位置から、次ぎの部屋《へや》に寝ていた金兵衛に声をかけた。「今ごろ、本陣じゃ水をくみ上げています。釣瓶繩《つるべなわ》を繰る音がします。」
金兵衛は東南を枕《まくら》にして、行燈《あんどん》を引きよせ、三十年来欠かしたことのないような日記をつけているところだった。伊之助の言うことはすぐ金兵衛にも読めた。
「吉左衛門さんもおわるいと見えるわい。」
と金兵衛は身につまされるように言って、そばへ来た伊之助と同じようにしばらく耳を澄ましていた。この隠居は痰《たん》が出て歩行も自由でないの、心やすい人のほかはあまり物も言いたくないの、それもざっと挨拶《あいさつ》ぐらいにとどめてめんどうな話は御免こうむるのと言っているが、持って生まれた性分《しょうぶん》から枕《まくら》の上でもじっとしていない人だ。
「さっき、わたしは本陣へお寄り申して来ました。半蔵さんは病人に付きッきりで、もう三晩も四晩も眠らないそうです。今夜もあの人は徹夜でしょう。」
伊之助はそれを養父に言って見せ、やがて山村家のお払い物を金兵衛の枕もとに置いて、平兵衛の話をそこへ持ち出した。これはどうしたものか、とその相談をも持ちかけた。
「伊之助、そんなことまでこのおれに相談しなくてもいいぞ。」
と言いながらも、金兵衛は蒲団《ふとん》から畳の上へすこし乗り出した。平常から土蔵の前の梨《なし》の木に紙袋をかぶせて置いて、大風に落ちた三つの梨のうちで、一番大きな梨の目方が百三匁、ほかの二つは六十五匁ずつあったというような人がそこへ頭を持ち上げた。
「お父さん、ちょっとこの行燈《あんどん》を借りますよ。よく見えるところへ掛けて見ましょう。」
伊之助は代官の生活を連想させるような幅をその部屋の床の間に掛けて見せた。竹に蘭《らん》をあしらって、その間に遊んでいる五羽の鶏を描き出したものが壁の上にかかった。それは権威の高い人の末路を語るかのような一幅の花鳥の絵である。過去二百何十年にもわたってこの木曾谷を支配し、要害無双の関門と言われた木曾福島の関所を預かって来たあの旦那様にも、もはや大勢《たいせい》のいかんともしがたいことを知る時が来て、太政官《だじょうかん》からの御達《おたっ》しや総督府からの催促にやむなく江戸屋敷を引き揚げた紀州方なぞと同じように、いよいよ徳川氏と運命を共にするであろうかと思わせるようなお払い物である。
「どれ、一つ拝見するか。」
金兵衛は寝ながらながめていられない。彼は寝床を離れて、寝衣《ねまき》の上に袷羽織《あわせばおり》を重ね、床の間の方へはって行った。老いてはいるが、しかしはっきりした目で、行燈のあかりに映るその掛け物を伊之助と一緒に拝見に行った。彼は福島の旦那様の前へでも出たように、まず平身低頭の態度をとった。それからながめた。濃い、淡い、さまざまな彩色の中には、夜のことで隠れる色もあり、時代がついて変色した部分もある。
「長くお世話になった旦那様に、金でお別れを告げるようで、なんだか水臭いな。水臭いが、これも時世だ。伊之助――品はよく改めて見ろよ。」
「お父さん、ここに落款《らっかん》が宗紫山《そうしざん》としてありますね。」
「これはシナ人の筆だろうか、どうも宗紫山とは聞いたことがない。」
「さあ、わたしにもよくわかりません。」
「何にしろ、これは古い物だ。それに絹地だ。まあ、気に入っても入らなくても、頂《いただ》いて置け。これも御恩返しの一つだ。」
「時に、お父さん、これはいくらに頂戴《ちょうだい》したものでしょう。」
「そうさな。これくらいは、はずまなけりゃなるまいね。」
その時、金兵衛は皺《しわ》だらけな手をぐっと養子の前に突き出して、五本の指をひろげて見せた。
「五両。」
とまた金兵衛は言って、町人|風情《ふぜい》の床の間には過ぎた物のようなその掛け軸の前にうやうやしくお辞儀一つして、それから寝床の方へ引きさがった。
三
雨のふるよな
てっぽの玉のくる中に、
とことんやれ、とんやれな。
命も惜しまず先駆《さきがけ》するのも
みんなおぬしのためゆえじゃ。
とことんやれ、とんやれな。
国をとるのも、人を殺すも、
だれも本意じゃないけれど、
とことんやれ、とんやれな。
わしらがところの
お国へ手向かいするゆえに。
とことんやれ、とんやれな。
馬籠《まごめ》の宿場の中央にある高札場の前あたりでは、諸国流行の唄《うた》のふしにつれて、調練のまねをする子供らの声が毎日のように起こった。
その名を呼んで見るのもまだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の行宮《かりみや》西丸に着御《ちゃくぎょ》したもうたとの報知《しらせ》の届くころである。途中を気づかわれた静岡あたりの御通行には、徳川家が進んで駿河《するが》警備の事に当たったとの報知も来る。多くの東京市民は御酒頂戴《ごしゅちょうだい》ということに活気づき、山車《だし》まで引き出して新しい都の前途を祝福したと言い、おりもおりとて三、四千人からの諸藩の混成隊が会津戦争からそこへ引き揚げて来たとの報知もある。馬籠の宿場では、毎日のようにこれらの報知を受け取るばかりでなく、一度は生命の危篤を伝えられた本陣吉左衛門の病状が意外にもまた見直すようになったことまでが、なんとなく宿内の人気を引き立てた。
ある日も、伊之助は伏見屋の店座敷にいて、周囲の事情にやや胸をなでおろしながら会所へ出るしたくをするところであった。彼は隣家の主人がまだ宿内を見回るまでには至るまいと考え、自分の力にできるだけのことをして、なるべくあの半蔵を休ませたいと考えた。その時、店座敷の格子の外へは、街道に戯れている子供らの声が近づいて来る。彼は聞くともなしにその無心な流行唄《はやりうた》を聞きながら、宿役人らしい袴《はかま》をつけていた。
そこへお富が来た。お富は自分の家の子供らまでが戦《いくさ》ごっこに夢中になっていることを伊之助に話したあとで言った。
「でも、妙なものですね。ちょうどおとなのやるようなことを子供がやりますよ。梅屋の子供が長州、桝田屋《ますだや》の子供が薩摩《さつま》、それから出店《でみせ》(桝田屋分家)の子供が土佐とかで、みんな戦ごっこです。わたしが吾家《うち》の次郎に、お前は何になるんだいと聞いて見ましたら、あの子の言うことがいい。おれは尾州ですとさ。」
「へえ、次郎のやつは尾州かい。」
「えゝ、その尾州――ほんとに、子供はおかしなものですね。ところが、あなた、だれも会津になり手がない。」
この「会津になり手がない」が伊之助を笑わせた。お富は言葉をついで、
「そこは子供じゃありませんか。次郎が蓬莱屋《ほうらいや》の子に、桃さ、お前は会津におなりと言っても、あの蓬莱屋の子は黙っていて、どうしても会津になろうとは言い出さない。桃さ、お前がなるなら、よい物を貸す、吾家《うち》のお父《とっ》さんに買ってもらった大事な木の太刀《たち》を貸す、きょうも――あしたも――ずっと明後日《あさって》もあれを貸す、そう次郎が言いましたら、蓬莱屋の子はよっぽど借りたかったと見えて、うん、そんならおれは会津だ、としまいに言い出したそうです。会津になるものは討《う》たれるんだそうですからね。」
「よせ、そんな話は。おれは大げさなことはきらいだ。」
ごくわずかの時の間に、伊之助はお富からこんな子供の話を聞かされた。彼は会所へ出かける前、ちょっと裏の酒蔵の方を見回りに行ったが、無心な幼いものの世界にまで激しい波の浸って来ていることを考えて見ただけでもハラハラした。でも、お富の言って見せたことが妙に気になって、天井の高い造酒場の内を一回りして来たあとで、今度は彼の方からたずねて見た。
「お富、子供の戦さごっこはどんなことをするんだえ。」
「そりゃ、あなた、だれも教えもしないのに、石垣《いしがき》の下なぞでわいわい騒いで、会津になるものを追い詰めて行くんですよ。いよいよ石垣のすみに動けなくなると、そこで戦さに負けたものの方が、参った――と言い出すんです。まあ、どこから会津戦争のことなぞを覚えて来るんでしょう。あんなちいさな子供がですよ。」
十月も末に近くなって、毎年定例の恵比寿講《えびすこう》を祝うころになると、全く東北方面も平定し、従軍士卒の帰還を迎える日が来た。過ぐる閏《うるう》四月に、尾州の御隠居(徳川|慶勝《よしかつ》)が朝命をうけて甲信警備の部署を名古屋に定め、自ら千五百の兵を指揮して太田に出陣し、家老|千賀与八郎《ちがよはちろう》は先鋒《せんぽう》総括として北越に進軍した日から数えると、七か月にもなる。近国の諸侯で尾州藩に属し応援を命ぜられたのは、三河《みかわ》の八藩、遠江《とおとうみ》の四藩、駿河《するが》の三藩、美濃の八藩、信濃《しなの》の十一藩を数える。当時北越方面の形勢がいかに重大で、かつ危急を告げていたかは、これらの中国諸藩の動きを見てもおおよそ想像せられよう。
もはや、東山道軍と共に率先して戦地に赴《おもむ》いた山吹藩《やまぶきはん》の諸隊は伊那の谷に帰り、北越方面に出動した高遠《たかとお》、飯田《いいだ》二藩の諸隊も続々と帰国を急ぎつつあった。越後口から奥州路《おうしゅうじ》に進出し、六十里|越《ごえ》、八十里越のけわしい峠を越えて会津口にまで達したという従軍の諸隊は、九月二十二日の会津落城と共に解散命令が下ったとの話を残し、この戦争の激しかったことをも伝えて置いて、すでに幾組となく馬籠峠の上を西へと通り過ぎて行った。
この凱旋兵《がいせんへい》の通行は十一月の十日ごろまで続いた。時には五百人からの一組が三留野《みどの》方面から着いて、どっと一時に昼時分の馬籠の宿場にあふれた。ようやくそれらの混雑も沈まって行ったころには、かねて馬籠から戦地の方へ送り出した荒町の禰宜《ねぎ》松下千里も、遠く奥州路から無事に帰って来るとの知らせがある。その日には馬籠組頭としての笹屋《ささや》庄助も峠の上まで出迎えに行った。
「お富、早いものじゃないか。荒町の禰宜さまがもう帰って来るそうだよ。」
その言葉を残して置いて、伊之助は伏見屋の門口を出た。彼は従軍の禰宜を待ち受ける心からも、また会所勤めに通って行った。
連日の奔走にくたぶれて、会所に集まるものはいずれも膝《ひざ》をくずしながら、凱旋兵士のうわさや会津戦争の話で持ちきった。その日の昼過ぎになっても
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