の京都方の大きな動きである。これはよほどの決心なしに動かれる場合でもない。一方には京都市民の動揺があり、一方には静岡《しずおか》以東の御通行さえも懸念《けねん》せられる。途中に鳳輦《ほうれん》を押しとどめるものもあるやの流言もしきりに伝えられる。東山道方面にいて宿駅のことに従事するものはそれを聞いて、いずれも手に汗を握った。というは、あの和宮様御降嫁当時の彼らが忘れがたい経験はこの御通行の容易でないことを語るからであった。
 東海道方面からあふれて来る旅人の混雑は、馬籠《まごめ》のような遠く離れた宿場をも静かにして置かない。年寄役で、問屋後見を兼ねている伏見屋の伊之助は例のように、宿役人一同を会所に集め、その混雑から街道を整理したり、木曾|下《しも》四か宿の相談にあずかったりしていた。七里役(飛脚)の置いて行く行幸のうわさなぞを持ち寄って、和宮様御降嫁当時のこの街道での大混雑に思い比べるのは桝田屋《ますだや》の小左衛門だ。助郷《すけごう》徴集の困難が思いやられると言い出すのは梅屋の五助だ。時を気づかう尾州の御隠居(慶勝《よしかつ》)が護衛の兵を引き連れ熱田《あつた》まで新帝をお出迎えしたとの話を持って来るのは、一番年の若い蓬莱屋《ほうらいや》の新助だ。そこへ問屋の九郎兵衛でも来て、肥《ふと》った大きなからだで、皆の間に割り込もうものなら、伊之助の周囲《まわり》は男のにおいでぷんぷんする。彼はそれらの人たちを相手に、東海道の方に動いて行く鳳輦を想像し、菊の御紋のついた深紅色の錦《にしき》の御旗《みはた》の続くさかんな行列を想像し、惣萌黄《そうもえぎ》の股引《ももひき》を着けた諸士に取り巻かれながらそれらの御旗を静かに翻し行く力士らの光景を想像した。彼はまた、外国の旋条銃《せんじょうじゅう》と日本の刀剣とで固めた護衛の武士の風俗ばかりでなく、軍帽、烏帽子《えぼし》、陣笠《じんがさ》、あるいは鉄兜《てつかぶと》なぞ、かぶり物だけでも新旧時代の入れまじったところは、さながら虹《にじ》のごとき色さまざまな光景をも想像し、この未曾有《みぞう》の行幸を拝する沿道人民の熱狂にまで、その想像を持って行った。
 十月のはじめには、新帝はすでに東海道の新井《あらい》駅に御着《おんちゃく》、途中|潮見坂《しおみざか》というところでしばらく鳳輦を駐《と》めさせられ、初めて大洋を御覧になったという報告が来るようになった。そこにひらけたものは、遠く涯《はて》も知らない鎖国時代の海ではなくて、もはや彼岸《ひがん》に渡ることのできる大洋である。木曾あたりにいて、想像する伊之助にとっても、これは多感な光景であった。
「や、これはよいお話だ。半蔵さんにも聞かせたい。」
 と伊之助は言って見たが、あいにくと半蔵が会所に顔を見せない。この街道筋の混雑の中で、半蔵の父吉左衛門の病は重くなった。中津川から駕籠《かご》で医者を呼ぶの、組頭《くみがしら》の庄助《しょうすけ》を山口村へも走らせるのと、本陣の家では取り込んでいた。

       二

 一日として街道に事のない日もない。ともかくも一日の勤めを終わった。それが会所を片づけて立ち上がろうとするごとに伊之助の胸に浮かんで来ることであった。その二、三日、半蔵が病める父の枕《まくら》もとに付きッきりだと聞くことも、伊之助の心を重くした。彼はその様子を知るために、砂利《じゃり》で堅めた土間を通って、問屋場《といやば》の方をしまいかけている栄吉を見に行った。そこには|日〆帳《ひじめちょう》を閉じ、小高い台のところへ来て、その上に手をつき、叔父《おじ》(吉左衛門のこと)の病気を案じ顔な栄吉を見いだす。栄吉は羽目板《はめいた》の上の位置から、台の前の蹴込《けこ》みのところに立つ伊之助の顔をながめながら、長年中風を煩《わずら》っているあの叔父がここまで持ちこたえたことさえ不思議であると語っていた。
 その足で、伊之助は本陣の母屋《もや》までちょっと見舞いを言い入れに行った。半蔵夫婦をはじめ、お粂《くめ》や宗太まで、いずれも裏二階の方と見えて、広い囲炉裏ばたもひっそりとしている。そこにはまた、あかあかと燃え上がる松薪《まつまき》の火を前にして、母屋を預かり顔に腕組みしている清助を見いだす。
 清助は言った。
「伊之助さま、ここの旦那《だんな》はもう三晩も四晩も眠りません。おれには神霊《みたま》さまがついてる、神霊さまがこのおれを護《まも》っていてくださるから心配するな、ナニ、三晩や四晩ぐらい起きていたっておれはちっともねむくない――そういうことを言われるんですよ。大旦那の病気もですが、あれじゃ看護するものがたまりません。わたしは半蔵さまの方を心配してるところです。」
 それを聞くと、伊之助は病人を疲れさせることを恐れて、裏の隠居所までは見に行かなかった。極度に老衰した吉左衛門の容体、中風患者のこととて冷水で頭部を冷やしたり温石で足部を温《あたた》めたりするほかに思わしい薬もないという清助の話を聞くだけにとどめて、やがて彼は本陣の表門を出た。
 伊之助ももはや三十五歳の男ざかりになる。半蔵より三つ年下である。そんなに年齢《とし》の近いことが半蔵に対して特別の親しみを覚えさせるばかりでなく、きげんの取りにくい養父金兵衛に仕えて来た彼は半蔵が継母のおまんに仕えて来たことにもひそかな思いやりを寄せていた。二人《ふたり》はかつて吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられた日に、同じく木曾福島の代官所からの剪紙《きりがみ》(召喚状)を受け、一方は本陣問屋庄屋三役青山吉左衛門|忰《せがれ》、一方は年寄兼問屋後見役小竹金兵衛忰として、付き添い二人、宿方|惣代《そうだい》二人同道の上で、跡役《あとやく》を命ぜられて来たあれ以来の間柄である。
 しかし、伊之助もいつまで旧《もと》の伊之助ではない。次第に彼は隣人と自分との相違を感ずるような人である。いかに父親思いの半蔵のこととは言え、あの吉左衛門発病の当時、たとい自己の寿命を一年縮めても父の健康に代えたいと言ってそれを祷《いの》るために御嶽参籠《おんたけさんろう》を思い立って行ったことから、今また不眠不休の看護、もう三晩も四晩も眠らないという話まで――彼伊之助には、心に驚かれることばかりであった。
「どうして半蔵さんはああだろう。」


 本陣から上隣りの石垣《いしがき》の上に立つ造り酒屋の堅牢《けんろう》な住居《すまい》が、この伊之助の帰って行くのを待っていた。西は厚い白壁である。東南は街道に面したがっしりした格子である。暗い時代の嵐《あらし》から彼が逃げ込むようにするところも、その自分の家であった。
 伏見屋では表格子の内を仕切って、一方を店座敷に、一方の入り口に近いところを板敷きにしてある。裏の酒蔵の方から番頭の運んで来る酒はその板敷きのところにたくわえてある。買いに来るものがあれば、桝《ます》ではかって売る。新酒揚げの日はすでに過ぎて、今は伏見屋でも書き入れの時を迎えていた。売り出した新酒の香気《かおり》は、伊之助が宿役人の袴《はかま》をぬいで前掛けにしめかえるところまで通って来ていた。
「お父《とっ》さんは。」
 伊之助はそれを妻のお富にたずねた。隠居金兵衛も九月の下旬から中津川の方へ遊びに行き、月がかわって馬籠に帰って来ると持病の痰《たん》が出て、そのまま隠宅へも戻《もど》らずに本家の二階に寝込んでいるからであった。伊之助にしても、お富にしても、二人は両養子である。隣家に病む吉左衛門よりも年長の七十二歳にもなる養父がいかに精力家だからとはいいながら、もうそう長いこともあるまいと言い合って、なんでもしたいことはさせるがいいとも言い合って、夫婦共に腫物《はれもの》にさわるようにしている。
 ちょうどお富は夕飯のしたくにかかっていたが、台所の流しもとの方からまた用事ありげに夫のそばへ来た。見ると、夫は何か独語《ひとりごと》を言いながら、黒光りのする大黒柱《だいこくばしら》の前を往《い》ったり来たりしていた。
「もうすこし、あたりまえということが大切に思われてもいいがナ。」
「まあ、あなたは何を言っていらっしゃるんですかね。」
「いや、おれはお父《とっ》さんに対して言ってるんじゃない。今の世の中に対してそう言ってるんさ。」
 この伊之助の言うことがお富を笑わせもし、あきれさせもした。何が「あたりまえ」で、何がそんな独語《ひとりごと》を言わせるのやら、彼女にはちんぷん、かんぷんであったからで。
 その時、お富は峠の組頭が来て夫の留守中に置いて行った一幅の軸をそこへ取り出した。それは木曾福島の代官山村氏が御勝手仕法立《おかってしほうだて》の件で、お払い物として伊之助にも買い取ってもらいたいという旦那様愛蔵の掛け物の一つであった。あの平兵衛が福島の用人からの依頼を受けて、それを断わりきれずに、あちこちと周旋奔走しているという意味のものでもあった。
「へえ、平兵衛さんがこんなものを置いて行ったかい。」
「あの人もお払い物を頼まれて、中津川の方へ行って来るから、帰るまでこれを預かってくれ、旦那がお留守でも話のわかるようにしといてくれ、そう言って置いて行きましたよ。」
「平兵衛さんも世話好きさね。それにしても、あの山村様からこういう物が出るようになったか。まあ、お父《とっ》さんともあとで相談して見る。」
 もともと養父金兵衛は木曾谷での分限者《ぶげんしゃ》に数えられた馬籠の桝田屋惣右衛門《ますだやそうえもん》父子の衣鉢《いはつ》を継いで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、山林には木の苗を植え、時には米の売買にもたずさわって来た人である。その年の福島の夏祭りの夜に非命の最期をとげた植松菖助《うえまつしょうすけ》なぞは御関所番《おせきしょばん》の重職ながらに膝《ひざ》をまげて、生前にはよく養父のところへ金子《きんす》の調達を頼みに来たものだ。その実力においては次第に福島の家中衆からもおそれられたが、しかし養父とても一町人である。結局、多くのひくい身分のものと同じように、長いものには巻かれることを子孫繁栄の道とあきらめて来た。天明《てんめい》六年度における山村家が六千六百余両の無尽の発起をはじめ、文久二年度に旦那様の七千両の無尽の発起、同じ四年度に岩村藩の殿様の三万両の無尽の発起など、それらの大口ものの調達を依頼されるごとに、伏見屋でも二百両、二百三十両と年賦で約束して来た御上金《おあげきん》のことを取り出すまでもなく、やれお勝手の不如意《ふにょい》だ、お家の大事だと言われるたびに、養父が尾州代官の山村氏に上納した金高だけでもよほどの額に上ろう。
 伊之助はこの養父の妥協と屈伏とを見て来た。変革、変革の声で満たされている日が来たことは、町人としての彼を一層用心深くした。この大きな混乱の中に巻き込まれるというは、彼には恐ろしいことであった。いつでもそこから逃げ込むようにするところは、養父より譲られた屋根の下よりほかになかった。頼むは、忠、孝、正直、倹約、忍耐、それから足ることを知り分に安んぜよとの町人の教えよりほかになかった。
 そういう彼は少年期から青年期のはじめへかけてを、学問、宗教、工芸、商業なぞの早く発達した隣国の美濃《みの》に送った人で、文字の嗜《たしな》みのない男でもない。日ごろ半蔵を感心させるほどの素直な歌を詠《よ》む。彼が開いて見る本の中には京大坂の町人の手に成った古版物や新版物の類もある。そういうものから彼が見つけて来たのは、平常な心をもつものの住む世界であった。彼は見るもの聞くものから揺られ通しに揺られていて、ほとほと彼の求めるような安らかさも、やさしさも、柔らかさも得られないとしている。彼は都会の町人が狭い路地なぞを選んで、そこに隠れ住むあのわびを愛する。また、あの細《ほそ》みを愛する。彼は養子らしいつつしみ深さから、自分の周囲にある人たちのことばかりでなく、みずから志士と許してこの街道を往来する同時代の人たちのあの度はずれた興奮を考えて見ることもある。驚かずにはい
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