たぶん景蔵さんと一緒に。わたしもまた京都の方へ行って、しばらく老先生(鉄胤のこと)のそばで暮らして来ます。」
「お民、香蔵さんともしばらくお別れだ。お酒をもう一本頼む。お母《っか》さんには内証だよ。」
半蔵は自分で自分の耳たぶを無意識に引ッぱりながら、それを言った。その年になっても、まだ彼は継母の手前を憚《はばか》っていた。
「今夜は御幣餅《ごへいもち》でも焼いてあげたいなんて、台所で今したくしています。」とお民は言った。「まあ、香蔵さんもゆっくり召し上がってください。」
「そいつはありがたい。御幣餅とは、よいものをごちそうしてくださる。木曾の胡桃《くるみ》の香《かおり》は特別ですからね。」と香蔵もよろこぶ。
半蔵は友人の方を見て、同門の人たちのうわさに移った。南条村の縫助が自分のところに置いて行った京都の話なぞをそこへ持ち出した。
「香蔵さん、君は京都のことはくわしい。今度はいろいろな便宜もありましょう。今度君が京都で暮らして見る一か月は、以前の三か月にも半年にも当たりましょう。何にしても、君や景蔵さんはうらやましい。」
「さあ、もう一度京都へ行って見たら、どんなふうに変わっていましょうかさ。」
「なんでも縫助さんの話じゃ、京都は今、復興の最中だというじゃありませんか。」
「伊那でもそれが大評判。一方には君、東征軍があの勢いでしょう。世の中の舞台も大きく回りかけて来ましたね。しかし、半蔵さん、われわれはお互いに平田先生の門人だ。ここは考うべき時ですね。」
「わたしもそれは思う。」
「見たまえ、舞台の役者というものは、芝居《しばい》全体のことよりも、それぞれの持ち役に一生懸命になり過ぎるようなところがあるね。熱心な役者ほど、そういうところがあるね。今度わたしは総督のお供をして見て、そのことを感じました。狂言作者が、君、諸侯の割拠を破るという筋を書いても、そうは役者の方で深く読んでくれない。」
「多勢の仕事となると、そういうものかねえ。」
「まあ、半蔵さん、わたしは京都の方へ出かけて行って、あの復興の都の中に身を置いて見ますよ。いろいろまた君のところへも書いてよこしますよ。関東の形勢がどんなに切迫したと言って見たところで、肝心の慶喜公がお辞儀をしてかかっているんですからね。佐幕派の運命も見えてますね。それよりも、わたしは兵庫《ひょうご》や大坂の開港開市ということの方が気にかかる。外国公使の参内も無事に済んだからって、それでよいわと言えるようなものじゃありますまい。こんな草創の際に、したくらしいしたくのできようもなしさ。先方は兵力を示しても条約の履行を迫って来るのに、それすらこの国のものは忍ばねばならない。辛抱、辛抱――われわれは子孫のためにも考えて、この際は大いに忍ばねばならない。ほんとうに国を開くも、開かないも、実にこれからです……」
「お客さま――へえ、御幣餅《ごへいもち》。」
という子供の声がして、お粂《くめ》や宗太が母親と一緒に、皿《さら》に盛った山家の料理を囲炉裏ばたの方からそこへ運んで来た。
「さあ、どうぞ、冷《さ》めないうちに召し上がってください。」とお民は言って、やがて子供の方をかえり見ながら、「さっきから囲炉裏ばたじゃ大騒ぎなんですよ。吾家《うち》のお父《とっ》さんの着物をお客さまが着てるなんて、そんなことを言って――ほんとに、子供の時はおかしなものですね。」
この「お父《とっ》さんの着物」が客をも主人をも笑わせた。その時、香蔵は手をもみながら、
「どれ、一つ頂戴《ちょうだい》して見ますか。」
と言って、焼きたての御幣餅の一つをうまそうに頬《ほお》ばった。その名の御幣餅にふさわしく、こころもち平たく銭形《ぜにがた》に造って串《くし》ざしにしたのを、一ずつ横にくわえて串を抜くのも、土地のものの食い方である。こんがりとよい色に焼けた焼き餅に、胡桃《くるみ》の香に、客も主人もしばらく一切のことを忘れて食った。
翌朝早く、香蔵は半蔵夫婦に礼を述べて、そこそこに帰りじたくをした。この友人の心は半分京都の方へ行っているようでもあった。別れぎわに、
「でも、半蔵さん。今は生きがいのある時ですね。」
その言葉を残した。
友人を送り出した後、半蔵は本陣の店座敷から奥の間へ通う廊下のところに出た。香蔵の帰って行く美濃の方の空はその位置から西に望まれる。彼は、同門の人たちの多くが師鉄胤の周囲に集まりつつあることを思い、一切のものが徳川旧幕府に対する新政府の大争いへと吸い取られて行く時代の大きな動きを思い、三道よりする東征軍の中には全く封建時代を葬ろうとするような激しい意気込みで従軍する同門の有志も多かるべきことを思いやって、ひとりでその静かな廊下をあちこち、あちこちと歩いた。
古代復帰の夢はまた彼の胸に帰って来た。遠く山県大弐《やまがただいに》、竹内式部《たけのうちしきぶ》らの勤王論を先駆にして、真木和泉《まきいずみ》以来の実行に移った討幕の一大運動はもはやここまで発展して来た。一地方に起った下諏訪の悲劇なぞは、この大きな波の中にさらわれて行くような時だ。よりよき社会を求めるためには一切の中世的なものをも否定して、古代日本の民族性に見るような直《なお》さ、健やかさに今一度立ち帰りたいと願う全国幾千の平田門人らの夢は、当然この運動に結びつくべき運命のものであった、と彼には思われるのである。
彼は周囲を見回した。過ぐる年の秋、幕府の外交奉行で大目付を兼ねた山口|駿河《するが》(泉処)をこの馬籠本陣に泊めた時のことが、ふと彼の胸に浮かんだ。あの大目付が、京都から江戸への帰りに微行でやって来て、ひとりで彼の家の上段の間に隠れながら、あだかも徳川幕府もこれまでだと言ったように、暗い涙をのんで行った姿は、まだ彼には忘れられずにある。彼はあの幕臣が「条約の大争いも一段落を告げる時が来た」と言ったことを思い出した。「この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもあるまい」と言ったことをも思い出した。とうとう、その日がやって来たのだ。しかも、御親政の初めにあたり、この多難な時に際会して。
明日《あす》――最も古くて、しかも最も新しい太陽は、その明日にどんな新しい古《いにしえ》を用意して、この国のものを待っていてくれるだろうとは、到底彼などが想像も及ばないことであった。そういう彼とても、平田門人の末に列《つら》なり、物学びするともがらの一人《ひとり》として、もっともっと学びたいと思う心はありながら、日ごろ思うことの万が一を果たしうるような静かな心の持てる時代でもなかった。信を第一とす、との心から、ただただ彼は人間を頼みにして、同門のものと手を引き合い、どうかして新政府を護《も》り立て、後進のためにここまで道をあけてくれた本居宣長《もとおりのりなが》らの足跡をその明日にもたどりたいと願った。
五
三月下旬には、東山道軍が木曾街道の終点ともいうべき板橋に達したとの報知《しらせ》の伝わるばかりでなく、江戸総攻撃の中止せられたことまで馬籠の宿場に伝わって来るようになった。すでに大政を奉還し、将軍職を辞し、広大な領地までそこへ投げ出してかかった徳川慶喜が江戸城に未練のあろうはずもない。いかに徳川家を疑い憎む反対者でも、当時局外中立の位置にある外国公使らまで認めないもののないこの江戸の主人の恭順に対して、それを攻めるという手はなかった。慶喜は捨てうるかぎりのものを捨てることによって、江戸の市民を救った。
このことは、いろいろに取りざたせられた。もとより、その直接交渉の任に当たり、あるいは主なき江戸城内にとどまって諸官の進退と諸般の処置とを総裁し順々として条理を錯乱せしめなかったは、大久保一翁、勝安房《かつあわ》、山岡《やまおか》鉄太郎の諸氏である。しかし、幕府内でも最も強硬な主戦派の頭目として聞こえた小栗上野《おぐりこうずけ》の職を褫《は》いで謹慎を命じたほどの堅い決意が慶喜になかったとしたら。当時、「彼を殺せ」とは官軍の中に起こる声であったばかりでなく、江戸城内の味方のものからも起こった。慶喜の心事を知らない兵士らの多くは、その恭順をもってもっぱら京都に降《くだ》るの意であるとなし、怒気|髪《はつ》を衝《つ》き、双眼には血涙をそそぎ、すすり泣いて、「慶喜|斬《き》るべし、社稷《しゃしょく》立つべし」とまでいきまいた。もしその殺気に満ちた空気の中で、幾多の誤解と反対と悲憤との声を押し切ってまでも断乎《だんこ》として公武一和の素志を示すことが慶喜になかったとしたら、おそらく、慶喜がもっと内外の事情に暗い貴公子で、開港条約の履行を外国公使らから迫られた経験もなく、多額の金を注《つ》ぎ込んだ債権者としての位置からも日本の内乱を好まない諸外国の存在を意にも留めずに、後患がどうであろうが将来がなんとなろうがさらに頓着《とんちゃく》するところもなく、ひたすら徳川家として幕府を失うのが残念であるとの一点に心を奪われるような人であったなら、たとい勝安房や山岡鉄太郎や大久保一翁などの奔走尽力があったとしても、この解決は望めなかった。かつては参覲交代《さんきんこうたい》制度のような幕府にとって重要な政策を惜しげもなく投げ出した当時からの、あの弱いようで強い、時代の要求に敏感で、そして執着を持たない慶喜の性格を知るものにとっては――また、文久年度と慶応年度との二回にまでわたって幾多の改革に着手したその性格のあらわれを知るものにとっては、これは不思議でもなかったのである。不幸にも、徳川の家の子郎党の中にすら、この主人をよろこばないものがある。その不平は、多年慶喜を排斥しようとする旧《ふる》い幕臣の中からも起こり、かくのごとき未曾有《みぞう》の大変革はけだし天子を尊ぶの誠意から出たのではなくて全く薩摩《さつま》と長州との決議から出た事であろうと推測する輩《やから》の中からも起こり、逆賊の名を負わせられながらなんらの抵抗をも示すことなしに過去三百年の都会の誇りをむざむざ西の野蛮人らにふみにじられるとはいかにも残念千万であるとする諸陪臣の中からも起こった。
「神祖(東照宮)に対しても何の面目がある。」――その声はどんな形をとって、どこに飛び出すかもしれなかった。江戸の空は薄暗く、重い空気は八十三里の余もへだたった馬籠あたりの街道筋にまでおおいかぶさって来た。
諸大名の家中衆で江戸表にあったものの中には、早くも屋敷を引き揚げはじめたとの報もある。江戸城明け渡しの大詰めも近づきつつあったのだ。開城準備の交渉も進められているという時だ。それらの家中衆の前には、およそ四つの道があったと言わるる。脱走の道、帰農商の道、移住の道、それから王臣となるの道がそれだ。周囲の事情は今までどおりのような江戸の屋敷住居《やしきずまい》を許さなくなったのだ。
将軍家直属の家の子、郎党となると、さらにはなはだしい。それらの旗本方は、いずれも家政を改革し、費用を省略して、生活の道を立てる必要に迫られて来た。連年海陸軍の兵備を充実するために莫大《ばくだい》な入り用をかけて来た旧幕府では、彼らが知行《ちぎょう》の半高を前年中借り上げるほどの苦境にあったからで。彼ら旗本方はほとんどその俸禄《ほうろく》にも離れてしまった。慶喜が彼らに示した書面の中には、実に今日に至ったというのも皆自分一身の過《あやま》ちより起こったことである。自分は深く恥じ深く悲しむ、ついては生計のために暇《いとま》を乞いたい者は自分においてそれをするには忍びないけれども、その志すところに任せるであろう、との意味のことが諭《さと》してあったともいう。
もはや、江戸屋敷方の避難者は在国をさして、追い追いと東海道方面にも入り込むとのうわさがある。この薄暗い街道の空気の中で、どんなにか昔気質《むかしかたぎ》の父も心を傷《いた》めているだろう。そのことが半蔵をハラハラさせた。幾たびか彼に家出を思いとまらせ、庄屋のつとめを耐《こら》えさせ、友人の景蔵や香蔵のあとを追わせないで、百姓相手に地方《
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