じかた》を守る心に立ち帰らせるのも、一つはこの年老いた父である。
 昼過ぎから、ちょっと裏の隠居所をのぞきに行こうとする前に、半蔵は本陣の母屋《もや》から表門の外に走り出て見た。
「村のものは。」
 だれに言うともなく、彼はそれを言って見た。旧幕府時代の高札でこれまでの分は一切取り除《の》けられ、新しい時代の来たことを辺鄙《へんぴ》な地方にまで告げるような太政官《だじょうかん》の定三札《じょうさんさつ》は、宿場の中央に改めて掲示されてある。彼は自分の家の門前の位置から、その高札場のあるあたりを坂になった町の上の方に望むこともでき、住み慣れた街道の両側に並ぶ石を載せた板屋根を下の方に見おろすこともできる。
 こんな山里にまで及んで来る時局の影響も争われなかった。毎年桃から山桜へと急ぐよい季節を迎えるころには、にわかに人の往来も多く、木曾福島からの役人衆もきまりで街道を上って来るが、その年の春にかぎってまだ宿場|継立《つぎた》てのことなぞの世話を焼きに来る役人衆の影もない。東山道軍通過以来の山村氏の代官所は測りがたい沈黙を守って、木曾谷に声を潜めた原生林そのままの沈まり方である。わずかに尾張藩《おわりはん》の山奉行が村民らの背伐《せぎ》りを監視するため、奥筋から順に村々を回って来たに過ぎなかった。
 この宿場では、つい二日ほど前に、中津川泊まりで西から進んで来る二百人ばかりの尾州兵の太鼓の音を聞いた。およそ三組から成る同勢の高旗をも望んだ。それらの一隊が、越後《えちご》方面を警戒する必要ありとして、まず松本辺をさして通り過ぎて行った後には、なんとなくゆききの人の足音も落ち着かない。飛脚荷物を持って来るものの名古屋|便《だよ》りまでが気にかかって、半蔵はしばらくその門前に立ってながめた。午後の日の光は街道に満ちている時で、諸勘定を兼ねて隣の国から登って来る中津の客、呉服物の大きな風呂敷《ふろしき》を背負った旅商人《たびあきんど》、その他、宿から宿への本馬《ほんま》何ほど、軽尻《からじり》何ほど、人足何ほどと言った当時の道中記を懐《ふところ》にした諸国の旅行者が、彼の前を往《い》ったり来たりしていた。


 まず街道にも異状がない。そのことに、半蔵はやや心を安んじて、やがて自分の屋敷内にある母屋《もや》と新屋の間の細道づたいに、裏の隠居所の方へ行った。階下を味噌《みそ》や漬《つ》け物の納屋《なや》に当ててあるのは祖父半六が隠居時代からで、別に二階の方へ通う入り口もそこに造りつけてある。雪隠《せっちん》通《がよ》いに梯子段《はしごだん》を登ったり降りたりしないでも、用をたせるだけの設けもある。そこは筆者不明の大書を張りつけた古風な押入れの唐紙《からかみ》から、西南に明るい障子をめぐらした部屋《へや》の間取りまで、父が祖父の意匠をそっくり崩《くず》さずに置いてあるところだ。代を跡目相続の半蔵に譲り、庄屋本陣問屋の三役を退いてからの父が連れ添うおまんを相手に、晩年を暮らしているところだ。
 そういう吉左衛門は、もはや一日の半ばを床の上に送る人である。その床の上に七十年の生涯《しょうがい》を思い出して、自己《おのれ》の黄昏時《たそがれどき》をながめているような人である。ちょうど半蔵が二階に上がって来て見た時は、父は眠っていた。
「お休みですか。」
 と言いながら、半蔵は父の寝顔をのぞきに行った。その時、継母のおまんが次ぎの部屋から声をかけた。
「これ、お父《とっ》さんを起こさないでおくれ。」
 大きな鼻、静かな口、長く延びた眉毛《まゆげ》、見慣れた半蔵の目には父の顔の形がそれほど変わったとも映らなかった。両手の置き場所から、足の重ね方まで考えるようになったと、よくその話の出る父は右を下にして昼寝の枕《まくら》についている。かすかないびきの声も聞こえる。半蔵はその鼻息を聞きすまして置いて、おまんのいる次ぎの部屋へ退いた。
「半蔵、江戸も大変だそうだねえ。」とおまんは言った。「さっきも、わたしがお父《とっ》さんに、そうあなたのように心配するからいけない、世の中のことは半蔵に任せてお置きなさるがいい、そう言ってあげても、お父さんは黙っておいでさ。そこへ、お前、上の伏見屋の金兵衛《きんべえ》さんだろう。あの人の話はまた、こまかいと来てる。わたしはそばできいていても、気が気じゃない。いくら旧《ふる》いお友だちでも、いいかげんに切り揚げて行ってくれればいい。そう思うとひとりでハラハラして、またこないだのようにお父さんが疲れなけりゃいいが、そればかり心配さ。金兵衛さんが帰って行ったあとで、お父さんが何を言い出すかと思ったら、おれはもうこんな時が早く通り過ぎて行ってくれればいい、早く通り過ぎて行ってくれればいいと、そればかり願っているとさ……」
 隣室の吉左衛門は容易に目をさまさない。めずらしくその裏二階に迎えたという老友金兵衛との長話に疲れたかして、静かな眠りを眠りつづけている。
 その時、母屋の方から用事ありげに半蔵をさがしに来たものもある。いろいろな村方の雑用はあとからあとからと半蔵の身辺に集まって来ていた時だ。彼はまた父を見に来ることにして、懐《ふところ》にした書付を継母の前に取り出した。それは彼が父に読みきかせたいと思って持って来たもので、京都方面の飛脚|便《だよ》りの中でも、わりかた信用の置ける聞書《ききがき》だった。当時ほど流言のおびただしくこの街道に伝わって来る時もなかった。たとえば、今度いよいよ御親征を仰せ出され、大坂まで行幸のあるということを誤り伝えて、その月の上旬に上方《かみがた》には騒動が起こったとか、新帝が比叡山《ひえいざん》へ行幸の途中|鳳輦《ほうれん》を奪い奉ったものがあらわれたとかの類《たぐい》だ。種々の妄説《もうせつ》はほとんど世間の人を迷わすものばかりであったからで。
「お母《っか》さん、これもあとでお父《とっ》さんに見せてください。」
 と半蔵が言って、おまんの前に置いて見せたは、東征軍が江戸城に達する前日を期して、全国の人民に告げた新帝の言葉で、今日の急務、永世の基礎、この他にあるべからずと記《しる》し添えてあるものの写しだ。それは新帝が人民に誓われた五つの言葉より成る。万機公論に決せよ、上下心を一にせよ、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよ、旧来の陋習《ろうしゅう》を破って天地の公道に基づけ、知識を世界に求め大いに皇基を振起せよ、とある。それこそ、万民のために書かれたものだ。

       六

 四月の中旬まで待つうちに、半蔵は江戸表からの飛脚|便《だよ》りを受け取って、いよいよ江戸城の明け渡しが事実となったことを知った。
 さらに彼は月の末まで待った。昨日は将軍家が江戸|東叡山《とうえいざん》の寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸《みと》の方へ落ちて行かれたとか、今日は四千人からの江戸屋敷の脱走者が武器食糧を携えて両総方面にも野州《やしゅう》方面にも集合しつつあるとか、そんな飛報が伝わって来るたびに、彼の周囲にある宿役人から小前《こまえ》のものまで仕事もろくろく手につかない。箒星《ほうきぼし》一つ空にあらわれても、すぐそれを何かの前兆に結びつけるような村民を相手に、ただただ彼は心配をわかつのほかなかった。
 でも、そのころになると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、藤堂《とうどう》、備前《びぜん》、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのである。尾州の御隠居父子を木曾の大領主と仰ぐ半蔵らにとっては、同藩の動きはことに凝視の的《まと》であった。偶然にも、彼は尾州藩の磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]隊《ほうはくたい》その他と共に江戸まで行ったという従軍医が覚え書きの写しを手に入れた。名古屋の医者の手になった見聞録ともいうべきものだ。
 とりあえず、彼はその覚え書きにざっと目を通し、筆者の付属する一行が大総督の宮の御守衛として名古屋をたったのは二月の二十六日であったことから、先発の藩隊長|富永孫太夫《とみながまごだゆう》をはじめ総軍勢およそ七百八十余人の尾州兵と駿府《すんぷ》で一緒になったことなぞを知った。さらに、彼はむさぼるように繰り返し読んで見た。
 その中に、徳川玄同《とくがわげんどう》の名が出て来た。玄同が慶喜を救おうとして駿府へと急いだ記事が出て来た。「玄同さま」と言えば、半蔵父子にも親しみのある以前の尾州公の名である。御隠居と意見の合わないところから、越前《えちぜん》公の肝煎《きもい》りで、当時|一橋家《ひとつばしけ》を嗣《つ》いでいる人である。ずっと以前にこの旧藩主が生麦《なまむぎ》償金事件の報告を携えて、江戸から木曾路を通行されたおりのことは、まだ半蔵の記憶に新しい。あのおりに、二千人からの人足が尾張領分の村々から旧藩主を迎えに来て、馬籠の宿場にあふれた往時のことも忘れられずにある。尾州藩ではこの人を起こし、二名の藩の重職まで同行させ、慶喜の心事が誤り伝えられていることを訴えて、大総督の宮を深く動かすところがあったと書いてある。
 その中にはまた、容易ならぬ記事も出て来た。小田原《おだわら》から神奈川《かながわ》の宿まで動いた時の東海道軍の前には、横浜居留民を保護するために各国連合で組織した警備兵があらわれたとある。外人はいろいろな難題を申し出た。これまで徳川氏とは和親を結んだ国の事ゆえ、罪あって征討するなら、まず各国へその理由を告げてしかるべきに、さらに何の沙汰《さた》もない。かつ、交易場の辺を兵隊が通行して戦争にも及ぶことがあるなら、前もって各国へ布告もあるべきに、その沙汰もない。そういうことを申し立てて一本突ッ込んで来た外人らの多くは江戸開市を前に控えて、早く秩序の回復を希望するものばかりだ。神戸三宮《こうべさんのみや》事件に、堺旭茶屋《さかいあさひぢゃや》事件に、潜んだ攘夷熱はまだ消えうせない。各国公使のうちには京都の遭難から危うく逃げ帰ったばかりのものもある。外人らは江戸攻撃の余波が、横浜居留地に及ぶことを恐れて、容易に東海道軍の神奈川通過を肯《がえん》じない。ついには、外国軍艦の陸戦隊が上陸を見るまでになった。これには総督府も御心配、薩州らも当惑したとある。その筆者に言わせるとすでに、万国交際の道を開いた新政府側としては、東征軍の行動に関しても、外人らの意見を全く無視するわけには行かなかった。江戸攻撃を開始して、あたりを兵乱の巷《ちまた》と化し、無辜《むこ》の民を死傷させ、城地を灰燼《かいじん》に帰するには忍びないのみか、その災禍が外人に及んだら、どんな国難をかもさないものでもないとは、大総督府の参謀においても深く考慮されたことであろうと書いてある。
 こんな外国交渉に手間取れて、東海道軍は容易に品川《しながわ》へはいれなかった。その時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿《よつやしんじゅく》へと進み、さらに市《いち》ヶ谷《や》の尾州屋敷に移り、あるいは土手を切り崩《くず》し、あるいは堤を築き、八、九門の大砲を備えて、事が起こらば直ちに邸内から江戸城を砲撃する手はずを定めていた。意外にも、東海道軍の遅着は東山道軍のために誤解され、ことに甲州、上野両道で戦い勝って来た鼻息の荒さから、総攻撃の中止に傾いた東海道軍の態度は万事因循で、かつ手ぬるく実に切歯《せっし》に堪《た》えないとされた。東海道軍はまた東海道軍で、この友軍の態度を好戦的であるとなし、甲州での戦さのことなぞを悪《あ》しざまに言うものも出て来た。ここに両道総督の間に自然と軋《へだた》りを生ずるようにもなったとある。
「フーン。」
 半蔵はそれを読みかけて、思わずうなった。


 これは父にも読み聞かせたいものだ。その考えから半蔵は尾州の従軍医が書き留めたものの写しをふところに入れて午後からまた裏二階の方へ父を見に行った。
「もう藤《ふじ》の花も咲くようになったか。」
 吉左衛門はそれをおまんにも半蔵にも言っ
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