長州は土佐を笑おうとした。薩州の三中隊、長州の二中隊、因州の八小隊、彦根の七小隊に比べると、土佐は東山道軍に一番多く兵を出している。十二小隊から成る八百八十六人の同勢である。それがまたまるで見かけ倒しだなぞと、上州縮《じょうしゅうちぢみ》の唄《うた》にまでなぞらえて愚弄《ぐろう》するものがあるかと思えば、一方ではそれでも友軍の態度かとやりかえす。今にめざましい戦功をたてて、そんなことを言う手合いに舌を巻かせて見せると憤激する高知藩《こうちはん》の小監察なぞもある。全軍が大垣を立つ日から、軍を分けて甲州より進むか進まないかの方針にすら、薩長は土佐に反対するというありさまだ。そのくせ薩軍では甲州の形勢を探らせに人をやると、土佐側でも別に人をやって、たとい途中で薩長と別れても甲州行きを決するがいいと言い出したものもあったくらいだ。半蔵の耳の底にあるのは、そういう人たちの足音だ。それは押しのけ、押しのけるものの合体して動いて行った足音だ。互いのかみ合いだ。躍進する生命のすさまじい真剣さだ。中には、押せ、押せでやって行くものもある。彦根や大垣の寝返りを恐れて、後方を振り向くものは撃つぞと言わないばかりのものもある。まったく、足音ほど隠せないものはない。あるものはためらいがちに、あるものは荒々しく、あるものはまた、多数の力に引きずられるようにしてこの街道を踏んで行った。いかに王師を歓迎する半蔵でも、その競い合う足音の中には、心にかかることを聞きつけないでもない。
「彼を殺せ。」
その声は、昨日の将軍も実に今日の逆賊であるとする人たちの中から聞こえる。半蔵が多数の足音の中に聞きつけたのもその声だ。いや、これが決して私闘であってはならない、蒼生万民《そうせいばんみん》のために戦うことであらねばならない。その考えから、彼はいろいろ気にかかることを自分の小さな胸一つに納めて置こうとした。どうして、新政府の趣意はまだ地方の村民の間によく徹しなかったし、性急な破壊をよろこばないものは彼の周囲にも多かったからで。
相変わらず休みなしで、騒ぎ回っているのは子供ばかり。桃の節句も近いころのことで、姉娘のお粂《くめ》は隣家の伏見屋から祝ってもらった新しい雛《ひな》をあちこちとうれしそうに持ち回った。それを半蔵のところにまで持って来て見せた。
どうやら雨もあがり、あと片づけも済んだ三日目になって見ると、馬籠の宿場では大水の引いて行ったあとのようになった。陣笠《じんがさ》をかぶった因州の家中の付き添いで、野尻宿の方から来た一つの首桶《くびおけ》がそこへ着いた。木曾路行軍の途中、東山道軍の軍規を犯した同藩の侍が野尻宿で打ち首になり、さらに馬籠の宿はずれで三日間|梟首《さらしくび》の刑に処せらるるというものの首級なのだ。半蔵は急いで本陣を出、この扱いを相談するために他の宿役人とも会所で一緒になった。
因州の家中はなかなか枯れた人で、全軍通過のあとにこうしたものを残して行くのは本意でないと半蔵らに語り、自分らの藩からこんなけが人を出したのはかえすがえすも遺憾であると語った。木曾少女《きそおとめ》は色白で、そこいらの谷川に洗濯《せんたく》するような鄙《ひな》びた姿のものまでが旅人の目につくところから、この侍もつい誘惑に勝てなかった。女ゆえに陣中の厳禁を破った。辱《はず》かしめられた相手は、山の中の番太《ばんた》のむすめである。そんな話も出た。
因州の家中はまた、半蔵の方を見て言った。
「時に、本陣の御主人、拙者は途次《みちみち》仕置場《しおきば》のことを考えて来たが、この辺では竹は手に入るまいか。」
「竹でございますか。それなら、わたしどもの裏にいくらもございます。」
「これで奥筋の方へまいりますと、竹もそだちませんが、同じ木曾でも当宿は西のはずれでございますから。」と半蔵のそばにいて言葉を添えるものもある。
「それは何よりだ。そういうことであったら、獄門は青竹で済ませたい。そのそばに御制札を立てたい。早速《さっそく》、村の大工をここへ呼んでもらいたい。」
一切の準備は簡単に運んだ。宿役人仲間の桝田屋《ますだや》小左衛門は急いで大工をさがしに出、伏見屋伊之助は青竹を見立てるために本陣の裏の竹藪《たけやぶ》へと走った。狭い宿内のことで、このことを伝え聞いたものは目を円《まる》くして飛んで来る。問屋場の前あたりは大変な人だかりだ。
その中に宗太もいた。本陣の小忰《こせがれ》というところから、宗太は特に問屋の九郎兵衛に許されて、さも重そうにその首桶《くびおけ》をさげて見た。
「どうして、宗太さまの力に持ちあがらすか。首はからだの半分の重さがあるげなで。」
そんなことを言って混ぜかえすものがある。それに半蔵は気がついて、
「さあ、よした、よした――これはお前たちなぞのおもちゃにするものじゃない。」
としかった。
獄門の場処は、町はずれの石屋の坂の下と定められた。そこは木曾十一宿の西の入り口とも言うべきところに当たる。本陣の竹藪からは一本の青竹が切り出され、その鋭くとがった先に侍の首級が懸《か》けられた。そのそばには規律の正しさ、厳《おごそ》かさを示すために、東山道軍として制札も立てられた。そこには見物するものが集まって来て、うわさはとりどりだ。これは尾州藩から掛け合いになったために、因州軍でも捨てて置かれなかったのだと言うものがある。当月二十六日の夜に、宿内の大野屋勘兵衛方に止宿して、酒宴の上であばれて行ったのも、おおかたこの侍であろうと言って見るものもある。やがて因州の家中も引き揚げて行き、街道の空には夜鷹《よたか》も飛び出すころになると、石屋の坂のあたりは人通りも絶えた。
「どうも、番太のむすめに戯れたぐらいで、打ち首とは、おれもたまげたよ。」
「山の中へでも無理に女を連れ込んだものかなあ。」
「このことは尾州藩からやかましく言い出したげな。領地内に起こった出来事だで。それに、名古屋の御重職も一人、総督のお供をしているで。なにしろ、七藩からの寄り合いだもの。このくらいのことをやらなけりゃ、軍規が保てんと見えるわい。」
だれが問い、だれが答えるともなく、半蔵の周囲にはそんな声も起こる。
こうした光景を早く村民から隠したいと考えるのも半蔵である。彼は周囲を見回した。村には万福寺もある。そこの境内には無縁の者を葬るべき墓地もある。早くもとの首桶に納めたい、寺の住持|松雲和尚《しょううんおしょう》に立ち会ってもらってあの侍の首級を埋《うず》めてしまいたい、その考えから彼は獄門三日目の晩の来るのを待ちかねた。彼はまた、こうした極刑が新政府の意気込みをあらわすということに役立つよりも、むしろ目に見えない恐怖をまき散らすのを恐れた。庄屋としての彼は街道に伝わって来る種々《さまざま》な流言からも村民を護《まも》らねばならなかった。
三
三月にはいって、めずらしい春の大雪は街道を埋《うず》めた。それがすっかり溶けて行ったころ、かねて上京中であった同門の人、伊那《いな》南条村の館松縫助《たてまつぬいすけ》が美濃路《みのじ》を経て西の旅から帰って来た。
縫助は、先師|篤胤《あつたね》の稿本全部を江戸から伊那の谷の安全地帯に移し、京都にある平田家へその報告までも済まして来て、やっと一安心という帰りの旅の途中にある。いよいよ江戸の総攻撃も開始されるであろうと聞いては、兵火の災に罹《かか》らないうちに早くあの稿本類を救い出して置いてよかったという顔つきの人だ。半蔵はこの人を馬籠本陣に迎えて、日ごろ忘れない師|鉄胤《かねたね》や先輩|暮田正香《くれたまさか》からのうれしい言伝《ことづて》を聞くことができた。
「半蔵さん、わたしは中津川の本陣へも寄って来たところです。ほら、君もおなじみの京都の伊勢久《いせきゅう》――あの亭主《ていしゅ》から、景蔵さんのところへ染め物を届けてくれと言われて、厄介《やっかい》なものを引き受けて来ましたが、あいにくと、また景蔵さんは留守の時さ。あの人も今度は総督のお供だそうですね。わたしは中津川まで帰って来てそのことを知りましたよ。」
縫助はその調子だ。
美濃の大垣から、大井、中津川、落合《おちあい》と、順に東山道総督一行のあとを追って来たこの縫助は、幕府の探索方なぞに目をつけられる心配のなかっただけでも、王政第一春の旅の感じを深くしたと言う人である。なんと言っても平田篤胤没後の門人らは、同じ先師の愛につながれ、同じ復古の志に燃えていた。半蔵はまた日ごろ気の置けない宿役人仲間にすら言えないようなことまで、この人の前には言えた。彼が東山道軍を迎える前には、西よりする諸藩の武士のみが総督を護《まも》って来るものとばかり思ったが、実際にこの宿場に総督一行を迎えて見て、はじめて彼は東山道軍なるものの性質を知った。その中堅をもって任ずる土佐兵にしてからが、多分に有志の者で、郷士《ごうし》、徒士、従軍する庄屋、それに浪人なぞの混合して組み立てた軍隊であった。そんなことまで彼は縫助の前に持ち出したのであった。
「いや、君の言うとおりでしょう。王事に尽くそうとするものは、かえって下のものの方に多いかもしれませんね。」
と縫助も言って見せた。
旧暦三月上旬のことで、山家でも炬燵《こたつ》なしに暮らせる季節を迎えている。相手は旅の土産話《みやげばなし》をさげて来た縫助である。おまけに、腰は低く、話は直《ちょく》な人と来ている。半蔵は心にかかる京都の様子を知りたくて、暮田正香もどんな日を送っているかと自分の方から縫助にたずねた。
風の便《たよ》りに聞くとも違って、実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都|衣《ころも》の棚《たな》のあたりや、染物屋伊勢久の暖簾《のれん》のかかった町のあたりを彷彿《ほうふつ》させるものがあった。縫助は、「一つこの復興の京都を見て行ってくれ」と正香に言われたことを半蔵に語り、この国の歴史あって以来の未曾有《みぞう》の珍事とも言うべき外国公使の参内《さんだい》を正香と共に丸太町通りの町角《まちかど》で目撃したことを語った。三国公使のうち、彼は相国寺《しょうこくじ》から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出たオランダ代理公使ブロックと、その書記官の両人が黒羅紗《くろらしゃ》の日覆《ひおお》いのかかった駕籠《かご》に乗って、群集の中を通り過ぎて行くのを見ることができたという。まだ西洋人というものを見たことのない彼が、初めて自己の狭い見聞を破られた時は、夢のような気がしたとか。
縫助はなお、言葉を継いで、彼と正香とが周囲に群がる人たちと共に、智恩院《ちおんいん》を出る英国公使パアクスを待ったことを語った。これは参内の途中、二人《ふたり》の攘夷家《じょういか》のあらわれた出来事のために沙汰止《さたや》みとなった。彼が暇乞《いとまご》いのために師鉄胤の住む錦小路《にしきこうじ》に立ち寄り、正香らにも別れを告げて、京都を出立して来るころは、町々は再度の英国公使参内のうわさで持ちきっていた。沿道の警戒は一層厳重をきわめ、薩州、長州、芸州、紀州の諸藩からは三十人ずつほどの人数を出してその事に当たり、当日の往来筋は諸人通行留めで、左右横道の木戸も締め切るという評判であった。もはや、周囲の事情はこの国の孤立を許さない。上御一人《かみごいちにん》ですら進んで外国交際の道を開き、万事条約をもって世界の人を相手としなければならない、今後みだりに外国人を殺害したり、あるいは不心得の所業に及んだりするものは、朝命に悖《もと》り、国難を醸《かも》すのみならず、この国の威信にもかかわる不届き至極《しごく》の儀と言われるようになった。その罪を犯すものは士分の者たりとも至当の刑に処せられるほどの世の中に変わって来た。京都を中心にして、国是を攘夷に置いた当時を追想すると、実に隔世の感があったともいう。
「しかし、半蔵さん、今度わたしは京都の方へ行って見て、猫《ねこ》も杓子《しゃくし》も万国公法を振り回すに
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