勇ましく活気に満ちた人たちが肩にして来た銃は、舶来の新式で、当時の武器としては光ったものである。そのいでたちも実際の経験から来た身軽なものばかり。官軍の印《しるし》として袖《そで》に着けた錦の小帛《こぎれ》。肩から横に掛けた青や赤の粗《あら》い毛布《けっと》。それに筒袖《つつそで》。だんぶくろ。
[#改頁]
第四章
一
四日にわたって東山道軍は馬籠峠《まごめとうげ》の上を通り過ぎて行った。過ぐる文久元年の和宮様《かずのみやさま》御降嫁以来、道幅はすべて二|間《けん》見通しということに改められ、街道に添う家の位置によっては二尺通りも石垣《いしがき》を引き込めたところもあるが、今度のような御通行があって見ると、まだそれでも充分だとは言えなかった。馬籠の宿場ではあと片づけに混雑していた時だ。そこここには人馬のために踏み崩《くず》された石垣を繕うものがある。焼け残りの松明《たいまつ》を始末するものがある。道路にのこしすてられた草鞋《わらじ》、馬の藁沓《わらぐつ》、それから馬糞《まぐそ》の類《たぐい》なぞをかき集めるものがある。
「大きい御通行のあとには、きっと大雨がやって来るぞ。」
そんなことを言って、そろそろ怪しくなった峠の上の空模様をながめながら、家の表の掃除《そうじ》を急ぐものもある。多人数のために用意した膳《ぜん》、椀《わん》から、夜具|蒲団《ふとん》、枕《まくら》の類までのあと片づけが、どの家でもはじまっていた。
過去の大通行の場合と同じように、総督一行の通り過ぎたあとにはいろいろなものが残った。全軍の諸勘定を引き受けた高遠藩《たかとおはん》では藩主に代わる用人らが一切のあと始末をするため一晩馬籠に泊まったが、人足買い上げの賃銭が不足して、容易にこの宿場を立てなかった。どうやらそれらの用人らも引き揚げて行った。駅長としての半蔵はその最後の一行を送り出した後、宿内見回りのためにあちこちと出歩いた。彼は蔦屋《つたや》という人足宿の門口にも立って見た。そこには美濃《みの》の大井宿から総督一行のお供をして来た請負人足、その他の諸人足が詰めていて、賃銭分配のいきさつからけんか口論をはじめていた。旅籠屋《はたごや》渡世をしている大野屋勘兵衛方の門口にも立って見た。そこでは軍の第二班にあたる因州藩の御連中の宿をしたところ、酒を出せの、肴《さかな》を出せのと言われ、中にはひどく乱暴を働いた侍衆もあったというような話が残っていた。ある伝馬役《てんまやく》の門口にも立って見た。街道に添う石垣の片すみによせて、大きな盥《たらい》が持ち出してある。馬の行水《ぎょうずい》もはじまっている。馬の片足ずつを持ち上げさせるたびに、「どうよ、どうよ。」と言う馬方の声も起こる。湯水に浸された荒藁《あらわら》の束で洗われるたびに、馬の背中からにじみ出る汗は半蔵の見ている前で白い泡《あわ》のように流れ落ちた。そこにはまた、妻籠《つまご》、三留野《みどの》の両宿の間の街道に、途中で行き倒れになった人足の死体も発見されたというような、そんなうわさも伝わっていた。
半蔵が中津川まで迎えに行って謁見《えっけん》を許された東山道総督岩倉少将は、ようやく十六、七歳ばかりのうらわかさである。御通行の際は、白地の錦《にしき》の装束《しょうぞく》に烏帽子《えぼし》の姿で、軍旅のいでたちをした面々に前後を護《まも》られながら、父岩倉公の名代を辱《はず》かしめまいとするかのように、勇ましく馬上で通り過ぎて行った。副総督の八千丸《やちまる》も兄の公子に負けてはいないというふうで、赤地の錦の装束に太刀《たち》を帯び、馬にまたがって行ったが、これは初陣《ういじん》というところを通り越して、いじらしいくらいであった。この総督御本陣直属の人数は二百六人、それに用物人足五十四人、家来向き諸荷物人足五十二人、赤陣羽織《あかじんばおり》を着た十六人のものが赤地に菊の御紋のついた錦の御旗と、同じ白旗とをささげて来た。空色に笹龍胆《ささりんどう》の紋じるしをあらわした総督家の旗もそのあとに続いた。そればかりではない、井桁《いげた》の紋じるしを黒くあらわしたは彦根《ひこね》勢、白と黒とを半分ずつ染め分けにしたは青山勢、その他、あの同勢が押し立てて来た馬印から、「八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》」と大書した吹き流しまで――数えて来ると、それらの旗や吹き流しのはたはたと風に鳴る音が馬のいななきにまじって、どれほど軍容をさかんにしたかしれない。東山道軍の一行が活気に満ちていたことは、あの重い大砲を車に載せ、兵士の乗った馬に前を引かせ、二人《ふたり》ずつの押し手にそのあとを押させ、美濃と信濃《しなの》の国境《くにざかい》にあたる十曲峠《じっきょくとうげ》の険しい坂道を引き上げて来たのでもわかる。その勢いで木曾の奥筋へと通り過ぎて行ったのだ。轍《わだち》の跡を馬籠峠の上にも印《しる》して。
一行には、半蔵が親しい友人の景蔵、香蔵、それから十四、五人の平田門人が軍の嚮導《きょうどう》として随行して来た。あの同門の人たちの輝かしい顔つきこそ、半蔵が村の百姓らにもよく見てもらいたかったものだ。今度総督を迎える前に、彼はそう思った。もし岩倉公子の一行をこの辺鄙《へんぴ》な山の中にも迎えることができたなら、おそらく村の百姓らは山家の酒を瓢箪《ふくべ》にでも入れ、手造りにした物を皿《さら》にでも盛って、一行の労苦をねぎらいたいと思うほどのよろこびにあふれることだろうかと。彼はまた、そう思った。長いこと百姓らが待ちに待ったのも、今日《きょう》という今日ではなかったか。昨日《きのう》、一昨日《おととい》のことを思いめぐらすと、実に言葉にも尽くされないほどの辛労と艱難《かんなん》とを忍び、共に共に武家の奉公を耐《こら》え続けたということも、この日の来るのを待ち受けるためではなかったかと。さて、総督一行が来た。諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨《えいし》をもたらして来た。地方にあるものは安堵《あんど》して各自に世渡りせよ、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよと言われても、だれ一人《ひとり》百姓の中から進んで来て下層に働く仲間のために強い訴えをするものがあるでもない。鰥寡《かんか》、孤独、貧困の者は広く賑恤《しんじゅつ》するぞ、八十歳以上の高齢者へはそれぞれ褒美《ほうび》をつかわすぞと言われても、あの先年の「ええじゃないか」の騒動のおりに笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なくこの街道を踊り回ったほどの熱狂が見られるでもない。宿内のものはもちろん、近在から集まって来てこの街道に群れをなした村民は、結局、祭礼を見物する人たちでしかない。庄屋|風情《ふぜい》ながらに新政府を護《も》り立てようと思う心にかけては同門の人たちにも劣るまいとする半蔵は、こうした村民の無関心につき当たった。
二
御通行後の混雑も、一つ片づき、二つ片づきして、馬籠宿としての会所の残務もどうにか片づいたころには、やがて一切のがやがやした声を取り沈めるような、夕方から来る雨になって行った。慶応四年二月の二十八日のことで、ちょうど会所の事務は問屋九郎兵衛方で取り扱っているころにあたる。これは半蔵の家に付属する問屋場《といやば》と、半月交替で開く従来のならわしによるのである。半蔵はその会所の見回りを済まし、そこに残って話し込んでいる隣家の伊之助その他の宿役人にも別れて、日暮れ方にはもう扉《とびら》を閉じ閂《かんぬき》を掛ける本陣の表門の潜《くぐ》り戸《ど》をくぐった。
「岩倉様の御兄弟《ごきょうだい》も、どの辺まで行かっせいたか。」
例の囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って、御通行後のうわさをしている。毎日通いで来る清助もまだ話し込んでいる。その日のお泊まりは、三留野《みどの》か、野尻《のじり》かなぞと、そんなうわさに余念もない。半蔵が継母のおまんから、妻のお民まで、いずれもくたびれたらしい顔つきである。子供まで集まって来ている。そこへ半蔵が帰って行った。
「宗太さま、お前さまはどこで岩倉様を拝まっせいたなし。」と佐吉が子供にたずねる。
「おれか。おれは石屋の坂で。」と宗太は少年らしい目をかがやかしながら、「山口(隣村)から見物に来たおじさんがおもしろいことを言ったで――まるで錦絵《にしきえ》から抜け出した人のようだったなんて――なんでも、東下《あずまくだ》りの業平朝臣《なりひらあそん》だと思えば、間違いないなんて。」
「業平朝臣はよかった。」と清助も笑い出した。
「そう言えば、清助さんは福島の御隠居さまのことをお聞きか。」とおまんが言う。
「えゝ、聞いた。」
「あの御隠居さまもお気の毒さ。わざわざ中津川までお出ましでも、岩倉様の方でおあいにならなかったそうじゃないか。」
「そういう話です。」
「まあ、御隠居さまはああいうかたでも、木曾福島の御家来衆に不審のかどがあると言うんだろうね。献上したお馬だけは、それでも首尾よく納めていただいたと言うから。」
「何にしても、福島での御通行は見ものです。」
「しかし、清助さん、大垣《おおがき》のことを考えてごらんな。あの大きな藩でも、城を明け渡して、五百七十人からの人数が今度のお供でしょう。福島の御家中でも、そうはがんばれまい。」
「ですから、見ものだと言うんですよ。そこへ行くと、村の衆なぞは実にノンキなものですね。江戸幕府が倒れようと、御一新の世の中になろうと――そんなことは、どっちでもいいような顔をしている。」
「この時節がらにかい。そりゃ、清助さん、みんな心配はしているのさ。」
とまたおまんが言うと、清助は首を振って、
「なあに、まるで赤の他人です。」
と無造作に片づけて見せた。
半蔵はこんな話に耳を傾けながら、囲炉裏ばたにつづいている広い台所で、家のものよりおそく夕飯の膳《ぜん》についた。その日一日のあと片づけに下女らまでが大掃除のあとのような顔つきでいる。間もなく半蔵は家のものの集まっているところから表玄関の板の間を通りぬけて、店座敷の戸に近く行った。全国にわたって影響を及ぼすとも言うべき、この画期的な御通行のことが自然とまとまって彼の胸に浮かんで来る。何ゆえに総督府執事があれほど布告を出して、民意の尊重を約束したかと思うにつけても、彼は自分の世話する百姓らがどんな気でいるかを考えて、深いため息をつかずにはいられなかった。
「もっと皆が喜ぶかと思った。」
彼の述懐だ。
その翌日は、朝から大降りで、半蔵の周囲にあるものはいずれも疲労を引き出された。家《うち》じゅうのものがごろごろした。降り込む雨をふせぐために、東南に向いた店座敷の戸も半分ほど閉《し》めてある。半蔵はその居間に毛氈《もうせん》を敷いた。あだかも宿入りの日を楽しむ人のように、いくらかでも彼が街道の勤めから離れることのできるのは、そうした毛氈の上にでも横になって見る時である。宿内総休みだ。だれも訪《たず》ねて来るものもない。彼は長々と延ばした足を折り重ねて、わびしくはあるが暖かい雨の音をきいていたが、いつのまにかこの街道を通り過ぎて行った薩州《さっしゅう》、長州、土州、因州、それから彦根、大垣なぞの東山道軍の同勢の方へ心を誘われた。
多数な人馬の足音はまだ半蔵の耳の底にある。多い日には千百五十余人、すくない日でも四百三十余人からの武装した人たちから成る一大集団の動きだ。一行が大垣進発の当時、諸軍の役々は御本営に召され、軍議のあとで御酒頂戴《ごしゅちょうだい》ということがあったとか。土佐の片岡《かたおか》健吉という人は、参謀板垣退助の下で、迅衝隊《じんしょうたい》半大隊の司令として、やはり御酒頂戴の一人《ひとり》であるが、大勢《おおきお》いのあまり本営を出るとすぐ堀溝《どぶ》に落ちたと言って、そのことが一行の一つ話になっていた。こんな些細《ささい》なあやまちにも、薩州や
前へ
次へ
全42ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング