らかにするために上洛したのは、その年の正月もまだ早いころのことである。
 尾州にはすでにこの藩論の一定がある。美濃から飛騨《ひだ》地方へかけての諸藩の向背も、幕府に心を寄せるものにはようやく有利でない。これらの周囲の形勢に迫られてか、大垣あたりの様子をさぐるために、奥筋の方から早駕籠《はやかご》を急がせて来る木曾福島の役人衆もあった。それらの人たちが往《い》き還《かえ》りに馬籠の宿を通り過ぎるだけでも、次第に総督の一行の近づいたことを思わせる。旧暦二月の二十二日を迎えるころには、岩倉公子のお迎えととなえ、一匹の献上の馬まで引きつれて、奥筋の方から馬籠に着いた一行がある。それが山村氏の御隠居だった。半蔵父子がこれまでのならわしによれば、あの名古屋城の藩主は「尾州の殿様」、これはその代官にあたるところから、「福島の旦那様《だんなさま》」と呼び来たった主人公である。


 半蔵は急いで父吉左衛門をさがした。山村氏の御隠居が彼の家の上段の間で昼食の時を送っていること、行く先は中津川で総督お迎えのために見えたこと、彼の家の門内には献上の馬まで引き入れてあることなどを告げて置いて、また彼は父のそばから離れて行った。
 例の裏二階で、吉左衛門はおまんを呼んだ。衣服なぞを取り出させ、そこそこに母屋《もや》の方へ行くしたくをはじめた。
「肩衣《かたぎぬ》、肩衣。」
 とも呼んだ。
 そういう吉左衛門はもはやめったに母屋の方へも行かず、村の衆にもあわず、先代の隠居半六が忌日のほかには墓参りの道も踏まない人である。めずらしくもこの吉左衛門が代を跡目相続の半蔵に譲る前の庄屋に帰って、青山家の定紋のついた麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》に着かえた。
「おまん、おれは隠居の身だから、わざわざ旦那様の前へ御挨拶《ごあいさつ》には出まい。何事も半蔵に任せたい。お馬を拝見させていただけば、それだけでたくさん。」
 こう言いながら、彼はおまんと一緒に裏二階を降りた。下男の佐吉が手造りにした草履《ぞうり》をはき、右の手に杖《つえ》をついて、おまんに助けられながら本陣の裏庭づたいに母屋への小道を踏んだ。実に彼はゆっくりゆっくりと歩いた。わずかの石段を登っても、その上で休んで、また歩いた。
 吉左衛門がお馬を見ようとして出たところは、本陣の玄関の前に広い板敷きとなっている式台の片すみであった。表庭の早い椿《つばき》の蕾《つぼみ》もほころびかけているころで、そのあたりにつながれている立派な青毛の馬が見える。総督へ献上の駒《こま》とあって、伝吉、彦助と名乗る両名の厩仲間《うまやちゅうげん》のものがお口取りに選ばれ、福島からお供を仰せつけられて来たとのこと。試みに吉左衛門はその駒の年齢を尋ねたら、伝吉らは六歳と答えていた。
「お父《とっ》さん。」
 と声をかけて、奥の方へ挨拶《あいさつ》に出ることを勧めに来たのは半蔵だ。
「いや、おれはここで失礼するよ。」
 と吉左衛門は言って、その駒の雄々《おお》しい鬣《たてがみ》も、大きな目も、取りつく蝿《はえ》をうるさそうにする尻尾《しっぽ》までも、すべてこの世の見納めかとばかり、なおもよく見ようとしていた。
 だれもがそのお馬をほめた。だれもがまた、中津川の方に山村氏の御隠居を待ち受けるものの何であるかを見定めることもできなかった。やがて奥から玄関先へ来て、供の衆を呼ぶ清助の大きな声もする。それは乗り物を玄関先につけよとの掛け声である。早、お立ちの合図である。その時、吉左衛門は式台の片すみのところに、その板敷きの上にかしこまっていて、父子代々奉仕して来た旧《ふる》い主人公のつつがない顔を見ることができた。
「旦那様。吉左衛門でございます。お馬拝見に出ましてございます。」
「おゝ、その方も達者《たっしゃ》か。」
 御隠居が彼の方を顧みての挨拶だ。
 吉左衛門は目にいっぱい涙をためながら、長いことそこに立ち尽くした。御隠居を乗せた駕籠を見送り、門の外へ引き出されて行くお馬を見送り、中津川行きの供の衆を見送った。半蔵がその一行を家の外まで送りに出て、やがて引き返して来たころになっても、まだ父は式台の上がり段のところに腰掛けながら、街道の空をながめていた。
「お父《とっ》さん、本陣のつとめもつくづくつらいと思って来ましたよ。」
「それを言うな。福島の御家中がどうあろうと、あの御隠居さまには御隠居さまのお考えがあって、わざわざお出かけになったと見えるわい。」


 東山道軍御本陣の執事から出た順路の日取りによると、二月二十三日は美濃の鵜沼《うぬま》宿お休み、太田宿お泊まりとある。その日、先鋒《せんぽう》はすでに中津川に到着するはずで、木曾福島から行った山村氏の御隠居が先鋒の重立った隊長らと会見せらるるのもその夜のことである。総督御本陣は、薩州兵と大垣兵とより成る先鋒隊からは三日ずつおくれて木曾街道を進んで来るはずであった。馬籠宿はすでに万般の手はずもととのった。というのは、全軍の通行に昼食の用意をすればそれでよかったからであった。よし隣宿妻籠の方に泊まりきれない兵士があるとしても、せいぜい一晩ぐらいの宿を引き受ければ、それで済みそうだった。半蔵はひとり一室に退いて、総督一行のために祈願をこめた。長歌などを作り試みて、それを年若な岩倉の公子にささげたいとも願った。
 夕方が来た。半蔵は本陣の西側の廊下のところへ宗太を呼んで、美濃の国の空の方を子供にさして見せた。暮色につつまれて行く恵那山《えなさん》の大きな傾斜がその廊下の位置から望まれる。中津川の町は小山のかげになって見えないまでも、遠く薄暗い空に反射するほのかな町の明りは宗太の目にも映った。
「御覧、中津川の方の空が明るく見えるよ。篝《かがり》でもたいているんだろうね。」
 と半蔵が言って見せた。
 その晩、半蔵は店座敷にいておそくまで自分の机にむかった。古風な行燈《あんどん》の前で、その日に作った長歌の清書などをした。中津川の友人景蔵の家がその晩の先鋒隊の本陣であることを考え、先年江戸屋敷の方から上って来た長州侯がいわゆる中津川会議を開いて討幕の第一歩を踏み出したのもまたあの友人の家であるような縁故の不思議さを考えると、お民のそはで枕《まくら》についてからも彼はよく眠られなかった。あたかも春先の雪が来てかえって草木の反発力を増させるように、木曾街道を騒がしたあの相良惣三《さがらそうぞう》の事件までが、彼にとっては一層東山道軍を待ち受ける心を深くさせたのである。あの山村氏の家中衆あたりがやかましく言う徳川慶喜征討の御制札の文面がどうあろうと――慶喜が大政を返上して置いて、大坂城へ引き取ったのは詐謀《さぼう》であると言われるようなことが、そもそも京都方の誤解であろうと、なかろうと――あまつさえ帰国を仰せ付けられた会津を先鋒にして、闕下《けっか》を犯し奉ったのもその慶喜であると言われるのは、事実の曲解であろうと、なかろうと――伏見、鳥羽の戦さに、現に彼より兵端を開いたのは慶喜の反状が明白な証拠だと言われるのに、この街道を通って帰国した会津藩の負傷兵が自ら合戦の模様を語るところによれば、兵端を開いたのは薩摩《さつま》方であったと言うような、そんな言葉の争いがどうあろうと――そんなことはもう彼にはどうでもよかった。先年七月の十七日、長州の大兵が京都を包囲した時、あの時の流れ丸《だま》はしばしば飛んで宮中の内垣《うちがき》にまで達したという。当時、長州兵を敵として迎え撃ったものは、陛下の忠僕をもって任ずる会津武士であった。あの時の責めを一身に引き受けた長州侯ですら寛大な御処置をこうむりながら、慶喜公や会津桑名のみが大逆無道の汚名を負わせられるのは何の事かと言って、木曾福島の武士なぞはそれをくやしがっている。しかし、多くの庄屋、本陣、問屋、医者なぞと同じように、彼のごとく下から見上げるものにとっては、もっと大切なことがあった。
「王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃないか。」
 寝覚《ねざめ》の蕎麦屋《そばや》であった時の友人の口から聞いて来た言葉が、枕《まくら》の上で彼の胸に浮かんだ。彼は乱れ放題乱れた社会にまた統一の曙光《しょこう》の見えて来たのも、一つは日本の国柄であることを想像し、この古めかしく疲れ果てた街道にも生気のそそぎ入れられる日の来ることを想像した。彼はその想像を古代の方へも馳《は》せ、遠く神武《じんむ》の帝《みかど》の東征にまで持って行って見た。


 まだ夜の明けきらないうちから半蔵は本陣の母屋《もや》を出て、薄暗い庭づたいに裏の井戸の方へ行った。水垢離《みずごり》を執り、からだを浄《きよ》め終わって、また母屋へ引き返そうとするころに、あちこちに起こる鶏の声を聞いた。
 いよいよ東征軍を迎える最初の日が来た。青く暗い朝の空は次第に底明るく光って来たが、まだ街道の活動ははじまらない。そのうちに、一番早く来て本陣の門をたたいたのは組頭の庄助だ。
「半蔵さま、お早いなし。」
 と庄助は言って、その日から向こう三日間、切畑《きりばた》、野火、鉄砲の禁止のお触れの出ていることを近在の百姓たちに告げるため、青の原から杁《いり》の方まで回りに行くところだという。この庄助がその日の村方の準備についていろいろと打ち合わせをした後、半蔵のそばから離れて行ったころには、日ごろ本陣へ出入りの百姓や手伝いの婆《ばあ》さんたちなどが集まって来た。そこの土竈《どがま》の前には古い大釜《おおがま》を取り出すものがある。ここの勝手口の外には枯れ松葉を運ぶものがある。玄関の左右には陣中のような二張りの幕も張り回された。
 半蔵はそこへ顔を出した清助をも見て、
「清助さん、総督は八十歳以上の高齢者をお召しになるという話だが、この庭へ砂でも盛って、みんなをすわらせることにするか。」
「そうなさるがいい。」
「今から清助さんに頼んで置くが、わたしも中津川まで岩倉様のお迎えに行くつもりだ。その時は留守を願いますぜ。」
 そんな話も出た。
 日は次第に高くなった。使いの者が美濃境の新茶屋の方から走って来て、先鋒《せんぽう》の到着はもはや間もないことであろうという。駅長としての半蔵は、問屋九郎兵衛、年寄役伏見屋伊之助、同役|桝田屋《ますだや》小左衛門、同じく梅屋五助などの宿役人を従え、先鋒の一行を馬籠の西の宿はずれまで出迎えた。石屋の坂から町田の辺へかけて、道の両側には人の黒山を築いた。
  宮さま、宮さま、お馬の前に
  ひらひらするのはなんじゃいな。
   とことんやれ、とんやれな。
  ありや、朝敵、征伐せよとの
  錦《にしき》の御旗《みはた》じゃ、知らなんか。
   とことんやれ、とんやれな。
 島津轡《しまづぐつわ》の旗を先頭にして、太鼓の音に歩調を合わせながら、西から街道を進んで来る人たちの声だ。こころみに、この新作の軍歌が薩摩隼人《さつまはやと》の群れによって歌われることを想像して見るがいい。慨然として敵に向かうかのような馬のいななきにまじって、この人たちの揚げる蛮音が山国の空に響き渡ることを想像して見るがいい。先年の水戸浪士がおのおの抜き身の鎗《やり》を手にしながら、水を打ったように声まで潜め、ほとんど死に直面するような足取りで同じ街道を踏んで来たのに比べると、これはいちじるしい対照を見せる。これは京都でなく江戸をさして、あの過去三世紀にわたる文明と風俗と流行との中心とも言うべき大都会の空をめがけて、いずれも遠い西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑ぞろいかと見える。江戸ももはや中世的な封建制度の残骸《ざんがい》以外になんらの希望をつなぐべきものを見いだされないために、この人たちをして過去から反《そむ》き去るほどの堅き決意を抱《いだ》かせたのであるか、復古の機運はこの人たちの燃えるような冒険心を刺激して新国家建設の大業に向かわせたのであるか、いずれとも半蔵には言って見ることができなかった。この
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