渡らないと言うんです。あの名主はそれで松代藩の方へ送られたというのが、まあ実際のところでしょう。しかしわたしの聞いたところでは、あの名主と不和なものがあって中傷したことらしい――飛んだ疑いをかけられたものですよ。」
「そういうことが起こって来るわい。」と吉左衛門は考えて、「そんなごたごたの中で、米や金が公平に割り渡せるもんじゃない。追分の名主も気の毒だが、米や金を渡そうとした方にも無理がある。」
「そうです、わたしも大旦那《おおだんな》に賛成です。」と清助も言葉を添える。「いきなり貧民救助なぞに手をつけたのが、相良惣三の失敗のもとです。そういうことは、もっと大切に扱うべきで、なかなか通りすがりの嚮導隊《きょうどうたい》なぞにうまくやれるもんじゃありません。」
「とにかく。」と半蔵は答えた。「あの仲間は、東山道軍と行動を共にしませんでした。そこから偽官軍というような評判も立ったのですね。そこへつけ込む者も起こって来たんですね。でも、相良惣三らのこころざしはくんでやっていい。やはりその精神は先駆というところにあったと思います。ですから、地方の有志は進んで献金もしたわけです。そうはわたしも福島のお役所じゃ言えませんでした。まあ、お父《とっ》さんやお母《っか》さんの前ですから話しますが、あのお役人たちもかなり強いことを言いましたよ。二度目に呼び出されて行った時にですね、お前たち親子は多年御奉公も申し上げたものだし、頼母子講《たのもしこう》のお世話方も行き届いて、その骨折りも認めないわけにいかないから、特別の憐憫《れんびん》をもってきっと叱《しか》り置く、特に手錠を免ずるなんて――それを言い渡された時は、御奉公もこれまでだと思って、わたしも我慢して来ました。」
その時、にぎやかな子供らの声がして、半蔵が妻のお民の後ろから、お粂《くめ》、宗太《そうた》も梯子段《はしごだん》を上って来たので、半蔵はもうそんな話をしなかった。その裏二階に集まったものは、やがて馬籠の宿場に迎えようとする岩倉の二公子、さては東山道軍のうわさなどで持ち切った。
「粂さま、お前さまは和宮様《かずのみやさま》の御通行の時のことを覚えておいでか。」と清助がきいた。
「わたしはよく覚えていない。」とお粂が羞《はじ》を含みがちに言う。
「ゆめのようにですか。」
「えゝ。」
「そうでしょうね。あの時分のことは、はっきり覚えていなさるまい。」
「清助さん、水戸浪士《みとろうし》のことをきいてごらん。」と横鎗《よこやり》を入れるのは宗太だ。
「だれに。」
「おれにさ。このおれにきいてごらん。」
「おゝ、お前さまにか。」
「清助さん、水戸浪士のことなら、おれだって知ってるよ。」
「さあ、今度の御通行はどうありますかさ。」とおまんは言って、やがて孫たちの方を見て、「今度はもうそんなに、こわい御通行じゃない。なんにも恐ろしいことはないよ。今に――錦《にしき》の御旗《みはた》が来るんだよ。」
半蔵の子供らも大きくなった。その年、慶応四年の春を迎えて見ると、姉のお粂はもはや十三歳、弟の宗太は十一歳にもなる。お民は夫が往《い》きにも還《かえ》りにも大火後の妻籠《つまご》の実家に寄って来たと聞いて、
「あなた、正己《まさみ》も大きくなりましたろうね。あれもことしは八つになりますよ。」
「いや、大きくなったにも、なんにも。もうすっかり妻籠の子になりすましたような顔つきさ。おれが呼んだら、男の子らしい軽袗《かるさん》などをはいて、お辞儀に出て来たよ。でも、きまりが悪いような顔つきをして、広い屋敷のなかをまごまごしていたっけ。」
もらわれて行った孫のうわさに、吉左衛門もおまんも聞きほれていた。やがて、吉左衛門は思いついたように、
「時に、半蔵、御通行はあと十二、三日ぐらいしかあるまい。人足は足りるかい。」
「今度は旧天領のものが奮って助郷《すけごう》を勤めることになりました。これは天領にかぎらないからと言って、総督の執事は、村々の小前《こまえ》のものにまで人足の勤め方を奨励しています。おそらく、今度の御通行を一期《いちご》にして、助郷のことも以前とは変わりましょう。」
「あなたは、それだからいけない。」とおまんは吉左衛門の方を見て、その話をさえぎった。「人足のことなぞは半蔵に任せてお置きなさるがいい。おれはもう隠居だなんて言いながら、そうあなたのように気をもむからいけない。」
「どうも、この節はおまんのやつにしかられてばかりいる。」
そう言って吉左衛門は笑った。
長話は老い衰えた父を疲らせる。その心から、半蔵は妻子や清助を誘って、間もなく裏二階を降りた。母屋《もや》の方へ引き返して行って見ると、上がり端《はな》に畳《たた》んだ提灯《ちょうちん》なぞを置き、風呂《ふろ》をもらいながら彼を見に来ている馬籠村の組頭《くみがしら》庄助《しょうすけ》もいる。庄助も福島からの彼の帰りのおそいのを案じていた一人《ひとり》なのだ。その晩、彼は下男の佐吉が焚《た》きつけてくれた風呂桶《ふろおけ》の湯にからだを温《あたた》め、客の応接はお民に任せて置いて、店座敷の方へ行った。白木《しらき》の桐《きり》の机から、その上に掛けてある赤い毛氈《もうせん》、古い硯《すずり》までが待っているような、その自分の居間の畳の上に、彼は長々と足腰を延ばした。
子供らがのぞきに来た。いつも早寝の宗太も、その晩は眠らないで、姉と一緒にそこへ顔を出した。背丈《せたけ》は伸びても顔はまだ子供子供した宗太にくらべると、いつのまにかお粂の方は姉娘らしくなっている。素朴《そぼく》で、やや紅味《あかみ》を帯びた枝の素生《すば》えに堅くつけた梅の花のつぼみこそはこの少女のものだ。
「あゝあゝ、きょうはお父《とっ》さんもくたぶれたぞ。宗太、ここへ来て、足でも踏んでくれ。」
半蔵がそれを言って、畳の上へ腹ばいになって見せると、宗太はよろこんだ。子供ながらに、宗太がからだの重みには、半蔵の足の裏から数日のはげしい疲労を追い出す力がある。それに、血を分けたものの親しみまでが、なんとなく温《あたた》かに伝わって来る。
「どれ、わたしにも踏ませて。」
とお粂も言って、姉と弟とはかわるがわる半蔵の大きな足の裏を踏んだ。
四
「あなた。」
「おれを呼んだのは、お前かい。」
「あなたはどうなさるだろうッて、お母《っか》さんが心配していますよ。」
「どうしてさ。」
「だって、あなたのお友だちは岩倉様のお供をするそうじゃありませんか。」
半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
暖かい雨はすでに幾たびか馬籠峠《まごめとうげ》の上へもやって来た。どうかすると夜中に大雨が来て、谷々の雪はあらかた溶けて行った。わずかに美濃境《みのざかい》の恵那山《えなさん》の方に、その高い山間《やまあい》の谿谷《けいこく》に残った雪が矢の根の形に白く望まれるころである。そのころになると東山道軍の本営は美濃まで動いて来て、大垣《おおがき》を御本陣にあて、沿道諸藩との交渉を進めているやに聞こえて来た。兵馬の充実、資金の調達などのためから言っても、軍の本営ではいくらかの日数をそこに費やす必要があったのだ。勤王の味方に立とうとする地方の有志の中には、進んで従軍を願い出るものも少なくない。
「おれもこうしちゃいられないような気がする。」
半蔵がそれを言って見せると、お民は夫の顔をながめながら、
「ですから、お母《っか》さんが心配してるんですよ。」
「お民、おれは出られそうもないぞ。そのことはお母《っか》さんに話してくれてもいい。おれがお供をするとしたら、どうしたって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれとは違うからね。あの幕府びいきの御家中がおれのようなものを許すと思われない。」
「……」
「ごらんな、景蔵さんや香蔵さんは、ただ岩倉様のお供をするんじゃないよ。軍の嚮導《きょうどう》という役目を命ぜられて行くんだよ。その下には十四、五人もついて御案内するという話だが、それがお前、みんな平田の御門人さ。何にしてもうらやましい。」
夫婦の間にはこんな話も出た。
その時になって初めて本陣も重要なものになった。東山道総督執事からの布告にもあるように、徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たものは遠慮なくその事情を届けいでよと指定された場所は、本陣である。諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べよと命ぜられた貧民に関する報告や願書の集まって来るのも、本陣である。のみならず、従来本陣と言えば、公用兼軍用の旅舎のごときもので、諸大名、公卿《くげ》、公役、または武士のみが宿泊し、休息する場所として役立つぐらいに過ぎなかった。今度の布告で見ると、諸藩の藩主または重職らが勤王を盟《ちか》い帰順の意を総督にいたすべき場所として指定された場所も、また本陣である。
半蔵の手もとには、東山道軍本営の執事よりとして、大垣より下諏訪《しもすわ》までの、宿々問屋役人中へあてた布達がすでに届いていた。それによると、薩州勢四百七十二人、大垣勢千八百二十七人、この二藩の兵が先鋒《せんぽう》として出発し、因州勢八百人余は中軍より一宿先、八百八十六人の土州勢と三百人余の長州勢とは前後交番で中軍と同日に出発、それに御本陣二百人、彦根《ひこね》勢七百五十人余、高須《たかす》勢百人とある。この人数が通行するから、休泊はもちろん、人馬|継立《つぎた》て等、不都合のないように取り計らえとある。しかし、この兵数の報告はかなり不正確なもので、実際に大垣から進んで来る東山道軍はこれほどあるまいということが、半蔵を不安にした。当時の諸藩、および旗本の向背《こうはい》は、なかなか楽観を許さなかった。
そのうちに、美濃から飛騨《ひだ》へかけての大小諸藩で帰順の意を表するものが続々あらわれて来るようになった。昨日《きのう》は苗木《なえぎ》藩主の遠山友禄が大垣に行って総督にお目にかかり勤王を盟《ちか》ったとか、きょうは岩村藩の重臣|羽瀬市左衛門《はせいちざえもん》が藩主に代わって書面を総督府にたてまつり慶喜に組した罪を陳謝したとか、加納藩《かのうはん》、郡上藩《ぐじょうはん》、高富藩《たかとみはん》、また同様であるとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。あの旧幕府の大老井伊|直弼《なおすけ》の遺風を慕う彦根藩士までがこの東征軍に参加し、伏見鳥羽の戦いに会津《あいづ》方を助けた大垣藩ですら薩州方と一緒になって、先鋒としてこの街道を下って来るといううわさだ。
しかし、これには尾張《おわり》のような中国の大藩の向背が非常に大きな影響をあたえたことを記憶しなければならない。いわゆる御三家の随一とも言われたほど勢力のある尾張藩が、率先してその領地を治め、近傍の諸藩を勧誘し、東征の進路を開かせようとしたことは、復古の大業を遂行する上にすくなからぬ便宜となったことを記憶しなければならない。
尾州とても、藩論の分裂をまぬかれたわけでは決してない。過ぐる年の冬あたりから、尾張藩の勤王家で有力なものは大抵御隠居(徳川|慶勝《よしかつ》)に従って上洛《じょうらく》していたし、御隠居とても日夜京都に奔走して国を顧みるいとまもない。その隙《すき》を見て心を幕府に寄せる重臣らが幼主元千代を擁し、江戸に走り、幕軍に投じて事をあげようとするなどの風評がしきりに行なわれた。もはや躊躇《ちゅうちょ》すべき時でないと見た御隠居は、成瀬正肥《なるせまさみつ》、田宮如雲《たみやじょうん》らと協議し、岩倉公の意見をもきいた上で、名古屋城に帰って、その日に年寄|渡辺《わたなべ》新左衛門、城代格|榊原勘解由《さかきばらかげゆ》、大番頭《おおばんがしら》石川|内蔵允《くらのすけ》の三人を二之丸向かい屋敷に呼び寄せ、朝命をもって死を賜うということを宣告した。なお、佐幕派として知られた安井長十郎以下十一人のものを斬罪《ざんざい》に処した。幼主元千代がそれらの首級をたずさえ、尾張藩の態度を朝野に明
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