』という言葉がある……そうさ、魂の柱さ。そいつを皆が失っているからじゃないかね……今の時代が求めるものは、君、再び生きるということじゃなかろうか……」
 しばらく二人《ふたり》は黙って寺町の通りを歩いて行った。そのうちに、縫助は何か言い出そうとして、すこし躊躇《ちゅうちょ》して、また始めた。
「暮田さん、ここまで送って来ていただけばたくさんです。あすの朝はわたしも早く立ちます。大津経由で、木曾《きそ》街道の方に向かいます。ここでお別れとしましょう。」
「まあもうすこし一緒に行こう。」
「どうでしょう、暮田さん、沢家のお邸《やしき》の方へは何か報告が来るんでしょうか。東山道回りの鎮撫《ちんぶ》総督も行き悩んでいるようですね。」
「どうも、そうらしい。」
「あれで美濃にはいろいろな藩がありますからね。中には、佐幕でがんばってるところもありますからね。」
「これから君の足で木曾街道を下って行ったら、大垣《おおがき》あたりで総督の一行に追いつきゃしないか。」
「さあ」
「中津川の浅見君にはよろしく言ってくれたまえ。それから、君が馬籠峠《まごめとうげ》を通ったら、あそこの青山半蔵の家へも声をかけて行ってもらいたい。」
 とうとう、正香は縫助について、寺町の通りを三条まで歩いた。さらに三条大橋のたもとまで送って行った。その河原《かわら》は正香にとって、通るたびに冷や汗の出るところだ。過ぐる文久三年の二月、同門の師岡正胤《もろおかまさたね》ら八人のものと共に、彼が等持院にある足利尊氏《あしかがたかうじ》以下、二将軍の木像の首を抜き取って、幕府への見せしめのため晒《さら》し物としたのも、その河原だ。そこには今、徳川慶喜征討令を掲げた高札がいかめしく建てられてあるのを見る。川上の橋の方から奔《はし》り流れて来る加茂川《かもがわ》の水に変わりはないまでも、京都はもはや昨日の京都ではない。人心を鼓舞するために新しく作られた「宮さま、宮さま」の軍歌は、言葉のやさしいのと流行唄《はやりうた》の調子に近いのとで、手ぬぐいに髪を包んでそこいらの橋のたもとに遊んでいるような町の子守《こも》り娘の口にまで上っていた。
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     第三章

       一

 東海、東山、北陸の三道よりする東征軍進発のことは早く東濃南信の地方にも知れ渡った。もっとも、京都にいて早くそのことを知った中津川の浅見景蔵が帰国を急いだころは、同じ東山道方面の庄屋《しょうや》本陣|問屋《といや》仲間で徳川|慶喜《よしのぶ》征討令が下るまでの事情に通じたものもまだ少なかった。
 今度の東山道|先鋒《せんぽう》は関東をめがけて進発するばかりでなく、同時に沿道諸国|鎮撫《ちんぶ》の重大な使命を兼ねている。本来なら、この方面には岩倉公の出馬を見るべきところであるが、なにしろ公は新政府の元締めとも言うべき位置にあって、自身に京都を離れかねる事情にあるところから、岩倉少将(具定《ともさだ》)、同|八千丸《やちまる》(具経《ともつね》)の兄弟《きょうだい》の公達《きんだち》が父の名代《みょうだい》という格で、正副の総督として東山道方面に向かうこととなったのである。それには香川敬三、伊地知正治《いじちまさはる》、板垣退助《いたがきたいすけ》、赤松護之助《あかまつもりのすけ》らが、あるいは参謀として、あるいは監察として随行する。なお、この方面に総督を護《まも》って行く役目は薩州《さっしゅう》、長州、土州、因州の兵がうけたまわる。それらの藩から二名ずつを出して軍議にも立ち合うはずである。景蔵はその辺の事情を友人の蜂谷香蔵《はちやこうぞう》にも、青山半蔵にも伝え、互いに庄屋なり本陣なり問屋なりとして、東山道軍の一行をあの街道筋に迎えようとしていた。
 幕府廃止以来、急激な世態の変化とともに、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を現出した地方もある中で、景蔵らの住む東濃方面は尾州藩の行き届いた保護の下にあった。それでも人心の不安はまぬかれない。景蔵が帰国を急いだはこの地方の動揺の際だ。


 青山半蔵は馬籠《まごめ》本陣の方にいて、中津川にある二人《ふたり》の友人と同じように、西から進んで来る東山道軍を待ち受けた。だれもが王政一新の声を聞き、復興した御代《みよ》の光を仰ごうとして、競って地方から上京するものの多い中で、あの景蔵がわざわざ京都の方にあった仮寓《かぐう》を畳《たた》み、師の平田|鉄胤《かねたね》にも別れを告げ、そこそこに美濃《みの》の郷里をさして帰って来たについては、深い理由がなくてはかなわない。半蔵は日ごろ敬愛するあの年上の友人の帰国から、いろいろなことを知った。伝え聞くところによると、東山道総督として初陣《ういじん》の途に上った岩倉少将はようやく青年期に達したばかりのような年ごろの公子である。兄の公子がその若さであるとすると、弟の公子の年ごろは推して知るべしである。いかに父の岩倉公が新政府の柱石とも言うべき公卿《くげ》であり、現に新帝の信任を受けつつある人とは言いながら、その子息らはまだおさなかった。沿道諸藩の思惑《おもわく》もどうあろう。それに正副の総督を護《まも》って来る人たちがいずれ一騎当千の豪傑ぞろいであるとしても、おそらく中部地方の事情に暗い。これは捨て置くべき場合でないと考えたあの友人のあわただしい帰国が、その辺の消息を語っている。半蔵は割合に年齢《とし》の近い中津川の香蔵を通して、あの年上の友人の国をさして急いで来た心持ちを確かめた。
 そればかりでない、帰国後の景蔵は香蔵と力をあわせ、東濃地方にある平田諸門人を語らい、来たるべき東山道軍のためによき嚮導者《きょうどうしゃ》たることを期している。それを知った時は半蔵の胸もおどった。できることなら彼も二人の友人と行動を共にしたかった。でも、木曾福島《きそふくしま》の代官山村氏の支配の下にある馬籠の庄屋に、それほどの自由が許されるかどうかは、すこぶる疑問であった。
 東山道総督執事の名で、この進軍のため沿道地方に働く人民を励まし、またその応援を求める意味の布告が発せられたのは、すでに正月のころからである。半蔵は幾たびか木曾福島の方から回って来るお触れ状を読んだ。それは木曾谷中を支配する地方《じかた》御役所よりの通知で、尾張藩《おわりはん》からの厳命に余儀なくこんな通知を送るとの苦《にが》い心持ちが言外に含まれていないでもない。名古屋方と木曾福島の山村氏が配下との反目はそんなお触れ状のはじにも隠れた鋒先《ほこさき》をあらわしていた。ともあれ、半蔵はそれを読んで、多人数入り込みの場合を予想し、人夫の用意から道橋の修繕までを心がける必要があった。各宿とも旅客用の夜具|蒲団《ふとん》、膳椀《ぜんわん》の類《たぐい》を取り調べ、至急その数を書き上ぐべきよしの回状をも手にした。皇軍通行のためには、多数の松明《たいまつ》の用意もなくてはならない。木曾谷は特に森林地帯とあって、各村ともその割り付けに応ずべきよしの通知もやって来た。
 半蔵は会所の方へ隣家の伊之助《いのすけ》その他の宿役人を集めて相談する前に、まず自分の家へ通《かよ》って来る清助と二人でその通知を読んで見た。各村とも三千|把《ぱ》から三千五百把ずつの松明を用意せよとある。これは馬籠《まごめ》宿の囲いうちにのみかぎらない。上松《あげまつ》、須原《すはら》、野尻《のじり》、三留野《みどの》、妻籠《つまご》の五宿も同様であって、中には三留野宿の囲いうちにある柿其村《かきそれむら》のように山深いところでは、一村で松明七千把の仕出し方を申し付けられたところもある。
 清助は言った。
「半蔵さま、御覧なさい。檜木《ひのき》類の枝を伐採する場所と、元木《もとぎ》の数をとりしらべて、至急書面で届け出ろとありますよ。つまり、木曾山は尾州の領分だから、松明《たいまつ》の材料は藩から出るという意味なんですね。へえ、なかなかこまかいことまで言ってよこしましたぞ。元木の痛みにならないように、役人どもにおいてはせいぜい伐採を注意せよとありますよ。いずれ御材木方も出張して、お取り締まりもある、御陣屋|最寄《もよ》りの場所はそこへ松明を取り集めて置いて、入り用の節に渡すはずであるから、その辺のことを心得て不締まりのないようにいたせ、ともありますよ。」
 どうして、これらの労苦の負担は木曾地方の人民にとって決して軽くない。その通知によれば、馬籠村三千把、山口村三千五百把、湯舟沢村三千五百把とあって、半蔵が世話すべき宿内に割り当てられた分だけでも、松明《たいまつ》一万把の仕出し方を申し付けられたことになる。しかし彼はどんなにでもして、村民を励まし、奮ってこの割り付けに応じさせようとしていた。
 それほど半蔵は王師を迎える希望に燃えていた。どれほどの忍耐を重ねたあとで、彼も馬籠の宿場に働く人たちと共に、この新しい春にめぐりあうことができたろう。その心から、たとい中津川の友人らと行動を共にし得ないまでも、一庄屋としての彼は自分の力にできるだけのことをして、来たるべき東山道軍を助けようとしていた。かねて新時代の来るのを待ち切れないように、あの大和《やまと》五条にも、生野《いくの》にも、筑波山《つくばさん》にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に烽起《ほうき》しつつあった討幕運動は――実に、こんな熾仁親王《たるひとしんのう》を大総督にする東征軍の進発にまで大きく発展して来た。

 地方の人民にあてて東山道総督執事が発した布告は、ひとりその応援を求める意味のものにとどまらない。どんな社会の変革でも人民の支持なしに成し就《と》げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならない。万事草創の際で、新政府の信用もまだ一般に薄かった。東山道総督の執事はそのために、幾たびか布告を発して、民意の尊重を約束した。このたび勅命をこうむり進発する次第は先ごろ朝廷よりのお触れのとおりであるが、地方にあるものは安堵《あんど》して各自の世渡りせよ。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよ。総督の進発については、沿道にある八十歳以上の老年、および鰥寡《かんか》、孤独、貧困の民どもは広く賑恤《しんじゅつ》する。忠臣、孝子、義夫、および節婦らの聞こえあるものへは、それぞれ褒美《ほうび》をやる思《おぼ》し召しであるから、諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べ、書面をもって本陣へ申し出よ。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨《えいし》であるぞ、と触れ出されたのもこの際である。
 こんなふうに、新政府が地方人民を頼むことの深かったのも、一つは新政府に対する沿道諸藩が向背《こうはい》のほども測りがたかったからで。最初、伏見鳥羽《ふしみとば》の戦いが会津《あいづ》方の敗退に終わった時、東山道方面の諸藩ではその出来事を先年八月十八日の政変に結びつけて、あの政変が逆に行なわれたぐらいに考えるものが多かった。もとより沿道の諸藩にもいろいろある。それぞれ領地の事情を異にし、旧将軍家との関係をも異にしている。中には、大垣藩《おおがきはん》のように直接に伏見鳥羽の戦いに参加して、会津や桑名を助けようとしたようなところがなくもない。しかし、京都の形勢に対しては、各藩ともに多く観望の態度を執った。慶喜が将軍職の位置を捨てて京都二条城を退いたと聞いた時にも、各藩ともにそれほど全国的な波動が各自の城下にまで及んで来ると思うものもなかった。その慶喜が軍艦で江戸の方へ去ったと聞いた時にすら、各藩の家中衆はまだまだ心を許していた。日本の国運循環して、昨日の将軍は実に今日の逆賊であると聞くようになって、それらの家中衆はいずれもにわかに強い衝動を受けた。その衝動は非常な藩論の分裂をよび起こした。これまで賊徒に従う譜代臣下の者たりとも、悔悟|憤発《ふんぱつ》して国家に
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