かくも師鉄胤の家を訪ね、正香と旧《ふる》い交わりを温《あたた》め、伊勢久の店先に旅の時を送るというだけにも満足していた。
 この縫助が礼を述べて立ちかけるので、久兵衛はそれを引きとめるようにして、
「オヤ、もうお帰りでございますか。何もおかまいいたしませんでした。」
 その時、久兵衛は染め物屋らしいことを言い出した。昨年の三月、諒闇《りょうあん》の春を迎えたころから再度の入洛を思い立って来て、正香らと共にずっと奔走を続けていた人に中津川本陣の浅見景蔵がある。東山道|先鋒《せんぽう》兼|鎮撫《ちんぶ》総督の一行が美濃《みの》を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓《かぐう》を畳《たた》み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の染め物を久兵衛のもとに残した。こんな街道筋の混雑する時で、それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであった。
「暮田さん、あなたからもお願いしてください。」と久兵衛は手をもみもみ言った。「初めてお目にかかったかたに、こんなことをお願いしちゃ失礼ですけれど。」
「なあに、そこは万国公法の世の中だもの。」と正香が戯れて見せた。
「それ、それ、」と久兵衛も軽く笑って、「近ごろはそれが大流行《おおはやり》。」
「縫助さん、君もその意気で預かって行くさ。」とまた正香が言い添える。
「暮田さんらしいトボけたことを言い出したぞ。」と縫助まで一緒になって笑い出した。「わたしも今度京都へ出て来て見て、皆が万国公法を振り回すには驚きましたね。では、こうします。立つ前に、もう一度暮田さんを訪《たず》ねます。その時に伊勢屋さんへもお寄りします。」


 英国公使パアクスの上京には新政府でもことに意を用いた。大坂を立つ時は小松|帯刀《たてわき》と伊藤俊介とが付き添い、京都にはいった時は中井弘蔵と後藤象次郎とが伏見|稲荷《いなり》の辺に出迎え、無事に智恩院の旅館に到着した。この公使の一行が赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を引率し、あるいは騎馬、あるいは駕籠《かご》で、参内のために智恩院新門前通りから繩手通《なわてどお》りにかかった時だ。そこへ二人の攘夷家が群集の中から飛び出したのであった。かねて新政府ではこんなことのあるのを憂い、各藩からは二十人以上の兵隊を出させ、通行の道筋を厳重に取り締まらせ、旅館の近傍へは屯兵所《とんぺいじょ》を設けて昼夜怠りなき回り番の手配りまでしたほどであったのに、新政府が万国交際の趣意もよく攘夷家に徹しなかったのであろう。それ乱暴者だと言って、一行護衛の先頭にあった兵隊が発砲する、群集は驚いて散乱する、その間に壮漢らの撃ち合いが行なわれた。中井弘蔵と後藤象次郎とは公使の接待役として、その時も行列の中にあったが、後藤は赤備兵の中へしゃにむに斬《き》り込んで来たもののあるのを見て、刀を抜いて一名を斃《たお》した。二度目に後藤の刀の目釘《めくぎ》が抜けて、その刀が飛んだ。そこで中井が受けた。中井は受けそこねて、頭部を斬られながらその場に倒れた。一名が兵隊のため生捕《いけど》りにされて、この騒ぎはようやくしずまったが、赤備兵の中には八、九人の手負いを出した。騎馬で行列の中にあったパアクスその人は運強くも傷つけられなかったとはいえ、参内はこの変事のために見合わせになった。さてこそ英国公使の通行を見なかったのである。一方には、紫宸殿《ししんでん》での御対面の式がパアクス以外の二国公使に対して行なわれた。新帝は御袴《おんはかま》に白の御衣《ぎょい》で、仏国のロセスとオランダのブロックとに拝謁を許された。式後の公使には鶴《つる》の間《ま》で、菓子カステラなどを饗《きょう》せられたという。従来、徳川将軍の時代にもまれに外国使節の謁見を許したが、しかし将軍の態度はすこぶる尊大であったのに、その跪坐低頭《きざていとう》の礼をすら免じ、帝みずから親しく異邦人を引見せられるばかりか、彼らをして直立して帝の尊顔を拝することを得せしめたもうたとある。この一事だけでも、彼らフランス人やオランダ人の間には信じがたいほどの大改革の感を与えたという。しかし、繩手通りでの変事がロセスらに知られずにはいなかった。式の終わったあとで、接待役と通詞とを兼ねた伊藤俊介が二公使を接待席に伴ない、その時までロセスに示さずにあったパアクスからの書面を取り出して見せた。それは英国の一騎兵がパアクスの使いとして仏国公使あてに持参したものだ。ロセスはそれを読むと、たちまち顔色を変え、「暴動がある。」と叫びながらそこそこに暇《いとま》を告げて、単騎で智恩院へ駆けつけた。そしてパアクスに向かって、すみやかに兵庫へ帰ろう、軍艦で横浜の方へおもむこうと説き勧めたという。でも、パアクスは頭を左右に振って、仏国公使の勧めに応じなかったとか。
 これらの話をもって、翌日の午後にまた正香は久兵衛を見に寄った。衣《ころも》の棚《たな》の方へ暇乞《いとまご》いに来た縫助とも同道で、二人して伊勢久の店先に腰掛けた。
「どうも驚きましたね。」
 久兵衛は奥からそこへ飛んで出て来て言った。店先に腰掛けるものも、火鉢《ひばち》なぞを引き寄せて客を迎えるものも、互いに顔を見合わせた。
「昨日は、岩倉様が見舞いに行く、越前の殿様(春嶽)が見舞いに行く、智恩院も大変だったそうです。」とまた久兵衛が言い出した。「昨晩はみんな心配したようですよ。」
「でも、パアクスもおもしろい男じゃありませんか。」と正香は言った。「引き連れて来た兵士に傷を負ったものは多いんだけれど、自分も、士官らも、中井、後藤二氏の奮闘のおかげで助かった、今ここで謁見の式も済まさずに帰ってしまったら、皇帝陛下に対しても不敬に当たるだろう――そう言ったそうだ。」
「さあ、この処置はどう収まるものですかサ。すくなくも六、七万両ぐらいの償金は取られるだろうなんて、そんなうわさでございますよ。」
 その時になると、二日を置いて改めて英国公使の参内があると触れ出されたが、町々の取り締まりは一層厳重をきわめるようになった。久兵衛は帳場格子のところへ立って行って、町役人から回って来たばかりの触れ書を取り出して来た。それを正香にも縫助にも見せた。来たる英国公使参内の当日には、繩手通り、三条通りから、堺町の往来筋へかけて、巳《み》の刻《こく》より諸人通行留めの事とある。左右横道の木戸は締め切りの事とある。往来筋に住居《すまい》する町家その他の家族と召使いのほかは、他人一切の滞留を差し留めるともある。
「ホ、」と縫助は目を円《まる》くして、「公用はもちろん、私用でも、町役人の免許を得ないものは通行を許さないとありますね。ぐずぐずしてると、わたしは国の方へ立てなくなる。」
「今は京都も騒がしゅうございますよ。諸藩の人が入り込んでおります。こんな新政府は今にひっくりかえるなんて、内々そんな腹でいるものもございます――なかなか油断はなりません。」
 久兵衛は言葉に力を入れてそれを縫助に言って見せた。
 そこへ久兵衛の養子が奥から顔を出した。店には平田|篤胤《あつたね》の遺著でも取りそろえて置こうというような町人|気質《かたぎ》の久兵衛とも違って、その養子はまた染め物屋一方という顔つきの人だ。手も濃い藍《あい》の色に染まっている。久兵衛はその人に言い付けて、帳箪笥《ちょうだんす》の横手にある戸棚《とだな》から紙包みを取り出させた。その上に、「御誂《おあつらえ》、伊勢久」としてあるのを縫助の前に置いた。
「では、恐れ入りますが、これを中津川の浅見景蔵さんへ届けていただきたい。道中のお荷物になって、お邪魔でしょうけれど。」と言って、久兵衛は養子の方を顧みて、「ちょっとお客様にお目にかけるか。」
「よい色に上がりましたよ。」と養子も紙包みを解きながら言った。
「これはよい黒だ。」と正香が言う。
「京の水でなければこの色は出ません。江戸紫と申して、江戸の水は紫に合いますし、京の水はまた紅《べに》によく合います。京紅と申すくらいです。この羽織地《はおりじ》の黒も下染めには紅が使ってございます。」
 久兵衛は久兵衛らしいことを言った。


「確かに。」
 その言葉を残して置いて、縫助は久兵衛に別れを告げた。預かった染め物の風呂敷包《ふろしきづつ》みをも小脇《こわき》にかかえながら、やがて彼は紺地に白く伊勢屋と染めぬいてある暖簾《のれん》をくぐって出た。
「縫助さん、わたしもそこまで一緒に行こう。」
 と言いながら正香は縫助のあとを追って行った。
 外国人滞在中は、乗輿《じょうよ》、および乗馬のまま九門の通行を許すというだけでも、今までには聞かなかったことである。一事が実に万事であった。一切の破格なことがかもし出す空気は、この山の上の古い都に活《い》き返るような生気をそそぎ入れつつあった。
「とにかく、世界の人を相手にするような時世にはなって来ましたね。」
 伊那南条村の片田舎《かたいなか》から出て来て見た縫助にこの述懐があるばかりでなく、王政復古を迎えた日は、やがて万国交際の始まった日であったとは、正香にとっても決しておろそかには考えられないことであった。
 縫助は三条の方角をさして、正香と一緒に麩屋町《ふやまち》から寺町の通りに出ながら、
「暮田さん、今度わたしは京都に出て来て見て、そう思います。なんと言っても今のところじゃ藩が中心です。藩というものをそれぞれ背負《しょ》って立ってる人たちは、思うことがやれる。ところが、われわれ平田門人はいずれも医者か、庄屋《しょうや》か、本陣|問屋《といや》か、でなければ百姓町人でしょう。」
「そう言えば、そうさ。平田門人の大部分は。」
「でしょう。みんな縁の下の力持ちです。それでも、どうかして新政府を護《も》り立てようとしています。それを思うと、いたいたしい。」
「しかし、縫助さん、君は平田門人が下積みになってるものばかりのように言うが、士分のものだってなくはない。」
「そうでしょうか。」
「見たまえ、こないだわたしは鉄胤《かねたね》先生のところで、天保《てんぽう》時代の古い門人帳を見せてもらったが、あの時分の篤胤|直門《じきもん》は五百四十九人ぐらいで、その中で七十三人が士分のものさ。全国で十七藩ぐらいから、そういう人たちを出してるよ。最も多い藩が十四人、最も少ない藩が一人《ひとり》というふうにね。鹿児島《かごしま》、津和野《つわの》、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台《せんだい》――数えて来ると、同門の藩士もふえて来たね。山吹《やまぶき》、苗木《なえぎ》なぞは言うまでもなしさ。あの時分の十七藩が、今じゃ三十五藩ぐらいになってやしないか。そこだよ、君――各藩は今、大きな問題につき当たって、だれもが右往左往してる。勤王か、佐幕かだ。こういう時に、平田篤胤没後の門人が諸藩の中にもあると考えて見たまえ。あの越前藩の中根雪江が、春嶽公と同藩の人たちとの間に立って、勤王を鼓吹してるなぞは、そのよい例じゃないかと思うね。それから、越前には君、橘曙覧《たちばなあけみ》のような同門の歌人もあるよ――もっとも、この人は士分かどうか、その辺はよく知らないがね。」
「とにかく、暮田さん。同門の人たちが急にふえて来たことは、驚くようですね。他の土地は知りませんが、あなたが伊那に来て隠れていた時分、一年の入門者は二十人くらいのものでしたろう。それでもあの谷じゃ、七人か九人から急に二十人の入門者ができたと言って、みんな肩身が広くなったように思ったものです。どうでしょう、昨年の冬からこの春へかけて、一息に百人という勢いですぜ。」
「この調子で行ったら、全国の御同門は今に三千人を越えるだろうね。そりゃ君、士分のものばかりじゃない。堂上の公卿《くげ》衆にだって、三十人近い御同門のかたができて来たからね。こんなに故人の平田篤胤を師と頼んで来る人のあるのは、どういう理由《わけ》かと尋ねて見るがいい。あの篤胤先生には『霊《たま》の真柱《まはしら》
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