群集の中を分けて、西に東にと走り回った。三条、二条の通りを縦に貫く堺町あたりの両側は、公使らの参内を待ち受ける人で、さながら立錐《りっすい》の地を余さない。
この人出の中に、平田門人|暮田正香《くれたまさか》もまじっていた。彼も今では沢家《さわけ》に身を寄せ、橘東蔵《たちばなとうぞう》の変名で、執事として内外の事に働いている人であるが、丸太町と堺町との交叉《こうさ》する町角《まちかど》あたりに立って、多勢の男や女と一緒に使節一行を待ち受けた。もっとも、その時は正香|一人《ひとり》でもなかった。信州|伊那《いな》の南条村から用事があって上京している同門の人、館松縫助《たてまつぬいすけ》という連れがあった。
彼岸《ひがん》のころの雨降りあげくにかわきかけた町中の道が正香らの目にある。周囲には今か今かと首を延ばして南の方角を望むものがある。そこは相国寺を出る仏国公使の通路でないまでも、智恩院を出る英国公使と、南禅寺を出るオランダ代理公使との通路に当たる。正香も縫助もまだ西洋人というものを見たこともない。昨日の紅夷《あかえみし》は、実に今日の国賓である。そのことが新政府をささえようとする熱い思いと一緒になって、二人《ふたり》の胸に入れまじった。
やがて、加州の紋じるしらしい梅鉢《うめばち》の旗を先に立てて、剣付き鉄砲を肩にした兵隊の一組が三条の方角から堺町通りを動いて来た。公使一行を護衛して来た人たちだ。そのうちにオランダ代理公使ブロックと、その書記官クラインケエスとを乗せた駕籠《かご》は、正香や縫助の待ち受けている前へさしかかった。
遠い世界の人のようにのみ思われていたものは、今二人の平田門人のすぐ目の前にある。正香らはつとめて西洋人の風貌《ふうぼう》を熟視しようとしたが、それは容易なことではなかった。というのは、先方が駕籠の中の人であり、時は短かく、かつ動いているため、思うように公使らを見る余裕もないからであった。のみならず、筒袖《つつそで》、だんぶくろ、それに帯刀の扮装《いでたち》で、周囲を警《いまし》め顔《がお》な官吏が駕籠のそばに付き添うているからで。
しかし、公使らを乗せた駕籠の窓には簾《すだれ》が巻き揚げてある。時には捧の前後に取りつく四人の駕籠かきが肩がわりをするので、正香らは黒羅紗《くろらしゃ》の日覆《ひおお》いの下にくっきりと浮き出しているような公使らの顔をその窓のところに見ることはできた。駕籠の造りは蓙打《ござう》ちの腰黒《こしぐろ》で、そんな乗り物を異国の使臣のために提供したところにも、旧《ふる》い格式などを破って出ようとする新政府の意気込みがあらわれている。初めて正香らの目に映る西洋人は、なかなかに侮りがたい人たちで、ことに代理公使の方は、犯しがたい威風をさえそなえた容貌《ようぼう》の人であった。髪の毛色を異にし、眸《ひとみ》の色を異にし、皮膚の色を異にし、その他風俗から言葉までを異にするような、このめずらしい異国の人たちは、これがうわさに聞いて来た京都かという顔つきで、正香らの見ているところを通り過ぎて行った。
その時、オランダ人の参内を見送った群集はさらに英国公使の一行を待ち受けた。これは随行の赤備兵《あかぞなえへい》を引率していて、一層|華々《はなばな》しい見ものであろうという。ところが智恩院を出たはずの公使らの一行が、待っても、待ってもやって来ない。しまいには正香らはあきらめて、なおも辛抱強くそこに立ち尽くしている多勢の男や女の群れから離れた。
「暮田さん、なんだかわたしは夢のような気がする。」
正香と一緒に歩き出した時の縫助の述懐だ。
京都は、東征軍の進発に、諸藩の人々の動きに、諸制度の改変に、あるいは破格な外国使臣の参内に、一切が激しく移り変わろうとするまっ最中にある。
「縫助さん、よく君は出て来た。まあ、この復興の京都を見てくれたまえ。」
口にこそ出さなかったが、正香はそれを目に言わせて、その足で堺町通りの角《かど》から丸太町を連れと一緒に歩いて行った。そこは平田門人仲間に知らないもののない染め物屋|伊勢久《いせきゅう》の店のある麩屋町《ふやまち》に近い。正香自身が仮寓《かぐう》する衣《ころも》の棚《たな》へもそう遠くない。
正香が連れの縫助は、号を千足《ちたり》ともいう。伊那時代からの正香のなじみである。この人の上京は自身の用事のためばかりではなかった。旧冬十一月の二十二日に徳川慶喜が将軍職を辞したころから、国政は再び復古の日を迎えたとはいうものの、東国の物情はとかく穏やかでないと聞いて、江戸にある平田|篤胤《あつたね》の稿本類がいつ兵火の災に罹《かか》るやも知れないと心配し出したのは、伊那の方にある先師没後の門人仲間である。座光寺村の北原稲雄が発起《ほっき》で、伊那の谷のような安全地帯へ先師の稿本類を移したい、一時それを平田家から預かって保管したい、それにはだれか同門のうちで適当な人物を江戸表へ送りたいとなった。その使者に選ばれたのが館松縫助なのだ。縫助はその役目を果たし、稿本類の全部を江戸から運搬して来て、首尾よく座光寺村に到着したのは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師|鉄胤《かねたね》のもとへ書面で通知してあったが、なお、縫助は今度の上京を機会に、その報告をもたらして来たのである。
正香としては、このよろこばしい音信《おとずれ》を伊勢久の亭主《ていしゅ》にも分けたかった。日ごろ懇意にする亭主に縫助をあわせ、縫助自身の口から故翁の草稿物の無事に保管されていることを亭主にも聞かせたかった。染め物屋とは言いながら、理解のある義気に富んだ町人として、伊勢屋|久兵衛《きゅうべえ》の名は縫助もよく聞いて知っている。
「どうです、縫助さん、出て来たついでだ。一つ伊勢久へも寄っておいでなさるサ。」
と言って、正香は連れを誘った。
御染物所。伊勢屋とした紺暖簾《こんのれん》の見える麩屋町のあたりは静かな時だ。正香らが店の入り口の腰高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子《ちょうばごうし》のところにただ一人留守居顔な亭主を見つけた。ここでも家のものや店員は皆、異人見物の方に吸い取られている。
「これは。これは。」
正香と連れだっての縫助の訪問が久兵衛をよろこばせた。
「さあ、どうぞ。」
とまた久兵衛は言いながら、奥から座蒲団《ざぶとん》などを取り出して来て、その帳場格子のそばに客の席をつくった。
久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに、早くから尊王の志を抱《いだ》き、和歌をも能《よ》くした。幕末のころには、彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが、彼はそれを懇切にもてなし、いろいろと斡旋《あっせん》紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那|伴野《ともの》村の松尾多勢子《まつおたせこ》、つづいて上京した美濃中津川《みのなかつがわ》の浅見景蔵《あさみけいぞう》、いずれもまず彼のもとに落ちついて、伊勢屋に草鞋《わらじ》をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛《じゅらく》を思い立って来る平田の門人仲間で、彼の世話にならないものはないくらいだ。
「この正月になりましてから、伊那からもだいぶお見えでございますな。」
と久兵衛は縫助に言って見せて、王政復古の声を聞くと同時に競って地方から上京して来るもの、何がな王事のために尽くそうとするものなぞの名を数えた。祭政一致をめがけて神葬古式の復旧運動に奔走する倉沢|義髄《よしゆき》と原|信好《のぶよし》、榊下枝《さかきしずえ》の変名で岩倉家に身を寄せる原|遊斎《ゆうさい》、伊那での長い潜伏時代から活《い》き返って来たような権田直助《ごんだなおすけ》、その弟子《でし》井上頼圀《いのうえよりくに》、それから再度上京して来て施薬院《せやくいん》[#「施薬院」は底本では「施楽院」]の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子――数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは、伊那方面だけでも久兵衛の指に折りきれないほどあった。そう言えば、師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて、参与として新政府の創業にあずかる重い位置にある。
「どれ、お茶でも差し上げて、それからお話を伺うとしましょう。あいにく、家のものを皆出してしまいました。」
そう言いながら久兵衛は奥の方へ立って行って、こまかい大坂格子のかげで茶道具などを取り出す音をさせた。
その時、正香はそこの店先にすわり直して、縫助と二人で話した。
「久兵衛さんもおもしろい人ですね。この店では篤胤先生の本を売りますよ。気吹《いぶき》の舎《や》の著述なら、なんでもそろえてありますよ。染め物のほかに、官服の注文にも応じるしサ。まあ商売《あきない》をしながら、道をひろめているんですね。」
「へえ、これはよいお店だ。」
その店先は、亭主が帳場格子のところにいて染め物の仕事場を監督する場所である。正香は仕事場の方を縫助にさして見せた。入り口から裏の物干し場へ通りぬけられるような土間をへだててその仕事場がある。そこはなかなか広い仕事場であるが、周囲の格子をしめきるとすこぶる薄暗い。しかし三尺もの下壁と言わず、こまかく厚手なぶッつけ格子と言わず、がっしりとした構造は念の入ったものである。正香はまた、四つずつ一組としてある藍瓶《あいがめ》を縫助にさして見せた。わざと暗くしてあるような仕事場の格子を通して、かすかな光線がそこにさし入っている。幾組か並んだ瓶《かめ》の中の染料には熱が加えてあると見えて、静かに沸く藍の香がその店先までにおって来ている。
久兵衛は自分で茶を入れて来た。それを店先へ運んで来た。その深い茶碗《ちゃわん》の形からして商家らしいものを正香らの前に置き、色も香ばしそうによく出た煎茶《せんちゃ》を客にもすすめ、自分でも飲みながら、
「館松《たてまつ》さんは、もう錦小路《にしきこうじ》(鉄胤の寓居《ぐうきょ》をさす)をお訪《たず》ねでございましたか。」
こんな話を始めかけると、入り口の障子のあく音がして、家のものが一緒に異人見物からどやどやと戻《もど》って来た。とうとう英国公使だけは見えなかったと言うものがある。こっそりそばへ行ってあのオランダ人のにおいをかいで見たら、どんな異人臭いものかと言うものがある。「いやらし、いやらし」などと言う若い娘の声もする。
隠れたところにいて同門の人たちのために働いているような久兵衛は、先師稿本の類が伊那の方に移されたことを聞いたあとで、さらに話しつづけた。
「さぞ老先生(鉄胤のこと)も御安心でございましょう。」
「なにしろ、王政復古の日が来たばかりのごたごたした中で、七十何里もあるところに運搬しようというんですから。」と正香が言って見せる。
「そいつは、なかなか。」と久兵衛も言う。
「いや、」と縫助はその話を引き取った。「わたしが江戸へ出ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅうございましたよ。早速《さっそく》、お見舞いを申し上げて、それから保管方を申し出ましたところ、大変によろこんでくださいました。道中が心配になりましたから、護《まも》りの御符《ごふ》は白河家《しらかわけ》(京都|神祇伯《じんぎはく》)からもらい受けました。それを荷物に付けるやら、自分で宰領をするやらして、たくさんな稿本や書類を馬で運搬したわけなんです。昨年、十二月の十八日に座光寺へ着きましたが、あの時は北原稲雄もわたしの手を執ってよろこびました。田島の前沢万里、今村|豊三郎《とよさぶろう》、いずれもこの事には心配して、路用なぞを出し合った仲間です。」
こんな話が尽きなかった。
旅にある縫助はその日と翌日とを知人の訪問に費やし、出て来たついでに四条の雛市《ひないち》を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し去ろうという人であった。彼は正香の言うように、それほどこの復興の京都に浸《ひた》って見る時を持たないまでも、とも
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