なかった。いずれも平素はその時ほどの旅行の自由を持たなかったからで。そして、これを機会に、先着のヨーロッパ人が足跡をつけて行って見ようとしていたからで。
 極東をめがけて来たヨーロッパ人の中には、まれに許されて内地に深く進んだものもないではない。その中にはまた、日本の社会を観察して、かなり手きびしい意見を発表したものもないではない。ヨーロッパ文明と東洋文明とを比較して、その間の主《おも》なる区別は一つであるとなし、前者は虚偽を一般に排斥するも、後者は公然一般にこれを承認する。日本人やシナ人にあっては最も著しい虚言が発覚しても恥辱とせられない、かくまで信用の行なわるることの少ないこの社会に、いかにして人生における種々の関係が保たるるかは、解しがたいきわみであると言うものがある。日本人の道徳、および国民生活の基礎に関する思想は全くヨーロッパ人のそれと異なっている、その婦人身売りの汚辱から一朝にして純潔な結婚生活に帰るようなことは、日本には徳と不徳との間になんらの区画もないかと疑わせると言うものがある。自分らが旅行の初めには、土地の非常に豊かなのにも似ず、住民の貧乏な状態のはなはだしいのが目についた、村はもとより、大家屋の多く見える町でさえ活気や繁栄の見るべきものがない、かく人民の貧窮の状態にあるのはただ外形のみであってその実そうでないのか、あるいは実際耕作より得る収入も少ないのか、自分らはそれを満足に説明することができない、日本では政治上にも、統計上にも、また学問上にも、すべてに関してその知識を得ることが容易でない、これは各人がおのれ自身の生活とその職業とに関しない事項を全く承知しないためによると言うものもある。しかし、日本に高い運命の潜んでいることを言わないヨーロッパ人はない。もし彼ら日本人にして応用科学の知識に欠くることなく、機械工業に進歩することもあらば、彼らはヨーロッパ諸国民と優に競争しうるものである、日本は文学上にも哲学上にも未知の国であるが、ここにある家屋は清潔に、衣服も実用に耐え、武器の精鋭は驚くばかりである、独創の美に富んだ美術工芸の類《たぐい》については人によって見方も分かれているが、とにもかくにも過ぐる三百年の間、ほとんど外国と交通することもなしに、これほど独自の文化を築き上げた民族は他にその比を見ない。そう言わないものもない。
「今こそ日本内地の深さにはいって見る時が来た。」
 こうカションが公使のそばへ行って語って見せるたびに、ロセスはそれをたしなめるような語気で、
「カション、いくら君が日本の言葉からはいろうとしても、その言葉の奥にあるものには手が届くまい。やはり、われわれヨーロッパのものは、なかなか東洋人の魂にははいれないのだ。」
 それがロセスの言い草だった。
 公使の一行が進んで行ったところは、広い淀川の流域から畿内《きない》中部地方の高地へと向かったところにあるが、あいにくと曇った日で、遠い山地の方を望むことはかなわなかった。二|艘《そう》の小蒸汽船は対岸に神社の杜《もり》や村落の見える淀川の中央からもっと先まで進んだ。そこまで行っても、遠い山々に隠れ潜んで容《かたち》をあらわさない。天気が天気なら、初めて接するそれらの山嶽《さんがく》から、一行のものは激しい好奇心を癒《いや》し得たかもしれない。でも、そちらの方には深い高地があって、その遠い連山の間に山城《やましろ》から丹波《たんば》にまたがるいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足するものが多かった。中でも、一番年若なカションは、一番熱心にその説明を聞いていた。どんな白い目で極東の視察に来るヨーロッパ人でも、この淀川に浮かんで来る春をながめたら、いかにこの島国が自然に恵まれていることの深いかを感じないものはあるまいとするのも、彼だ。


 次第に淀の駅の船着場も近いと聞くころには、煙《けぶ》るような雨が川の上へ来た。公使一行の中には慣れない不自由な旅に疲れて、早く伏見へと願っているものがある。何が伏見や京都の方に自分ら外国人を待っているだろうと言って、そろそろ上陸後の心づかいを始めるものがある。舷《ふなばた》の側の狭い廊下にもたれて、暖かではあるが寂しい雨を旅らしくながめているものもある。
 日本好きなカションにして見れば、この煙るような雨にしてからが、この国に来て初めて見られるようなものなのだ。なんでも彼は目をとめて見た。しばらく彼は書記官としての自分の勤めも忘れて、大坂|道頓堀《どうとんぼり》と淀の間を往復する川舟、その屋根をおおう画趣の深い苫《とま》、雨にぬれながら櫓《ろ》を押す船頭の蓑《みの》と笠《かさ》なぞに見とれていた。そのうちに、反対な岸の方をも見ようとして、狭い汽船の廊下を一回りして行くと、公使ロセスとオランダ代理公使ブロックとが舷《ふなばた》に近く立って話しているそばへ出た。しとしと降り続けている雨をその廊下からながめながら、聞くつもりもなく彼は公使らの話に耳を傾けた。
「江戸が攻撃されることになったら、横浜はどうなろう。」とロセスの声で。
「無論危ない。救いはどこからもあの港に来ない。おそらく、その日が来たら、居留民を保護する暇なぞは日本新政府の力にもなくなろう。」とブロックの声で。
 遠からず来たるべき江戸総攻撃のうわさが、そこにかわされている。公使らを監視しようとして一刻も油断しない戒心のために、同伴の官吏もひどく疲れた時であったから、公使らはその弱点に乗ずるともなく、互いに遠慮のないところを語り合っているのだ。
「徳川慶喜はただただ謹慎の意を表しているというではないか。戦いを好まないというではないか。」
 と今度はブロックの声で。
「そこだ。そのことはだれも認めている。あの英国公使ですら、それは認めている。それほど恭順の意を表しているものに対して、攻撃を加えるようなことは、正義と人道とが許すだろうか。」とロセスの声で。
「まったく、君の言うとおりだ。」
「なんとかして江戸攻撃をやめさせることはできないものか。自分はもう、こんなみじめな内乱を傍観してはいられない。」
 オランダ公務代理総領事としてのブロックが関東の形勢の案じられると言うにも、相応の理由はあった。この人に言わせると、当時のこの国の急務は内乱をおさめるにある。日本国がいつまでも日本人の手にありたいと願うなら、早くこんな内乱をおさめるがいい。そして国内衰弊の風を諸外国に示さないがいい。これまで強大な諸大名が外国から購《あがな》い入れた軍船、運送船、鉄砲、弾薬の類はおびただしい額に上り、その代金は全部直ちに支払われるはずもなく、現に諸外国の政府もしくは臣民はその債権者の位置にある。もし国内の戦争が日につぎやむ時なく、ここに終わってかしこに始まるというふうに、強大な諸大名が互いに争闘を事としたら、国勢は窮蹙《きゅうしゅく》し、四民は困弊するばかりであろう。これがブロックの懸念《けねん》であった。
「どうしてもこれは英国公使に協議する必要がある。」とまたロセスの声で、「もちろんわれわれは日本の内政に干渉する意志はない。しかしなんらかの形で、南軍の参謀に反省を求める必要がある。あの慶喜をも救わねばならない。一国の政治を執って来たものを、われわれはにわかに逆賊とは見なしたくない。まして慶喜はこれまで政権を執ったばかりでなく、過去三世紀にもわたってこの国の平和を維持した徳川の旧《ふる》い事業に対しても感謝されていい人だ。彼が江戸の方へにげ帰ったあとで、彼に謁見《えっけん》した外国人もあるが、いずれも彼の温雅であって貴人の体を失わないことをほめないものはない。今こそ徳川は不幸にして浮き雲におおわれているが、全く滅亡する事は惜しい、そう多くのものは言っている。しかし、彼慶喜がこの国にあっては、もとより凡庸の人でないことは自分も知っている。彼が自分ら外国人に対してもつねに親友の情を失わないのは不思議もない。」
 フランス公使ロセスが徳川に寄せる同情は、言葉のはしにも隠せないものがあった。そこには随行員以外に、だれも公使のつかうフランス語を解するものはいなかった。それでもカションは周囲を見回してその狭い廊下を行きつ戻《もど》りつしながら、公使のそばを立ち去りかねていた。

       五

 三国公使参内のうわさは早くも京都市民の間に伝わった。往昔、朝廷では玄蕃《げんば》の官を置き、鴻臚館《こうろかん》を建てて、遠い人を迎えたためしもある。今度の使節の上京はそれとは全く別の場合で、異国人のために建春門を開き、万国公法をもって御交際があろうというのだから、日本紀元二千五百余年来、未曾有《みぞう》の珍事であるには相違なかった。
 しかし、京都側として責任のある位置に立つものは、ただそれだけでは済まされない。正直一徹で聞こえた大原三位重徳《おおはらさんみしげとみ》なぞは、一度は恐縮し、一度は赤面した。先年の勅使が関東|下向《げこう》は勅諚《ちょくじょう》もあるにはあったが、もっぱら鎖攘《さじょう》(鎖港攘夷の略)の国是《こくぜ》であったからで。王政一新の前日までは、鎖攘を唱えるものは忠誠とせられ、開港を唱えるものは奸悪《かんあく》とせられた。しかるに手の裏をかえすように、その方向を一変したとなると、改革以前までの鎖攘を唱えたのは畢竟《ひっきょう》外国人を憎むのではなくして、徳川氏を顛覆《てんぷく》するためであったとしか解されない。もとより朝廷において、そんな卑劣な叡慮《えいりょ》はあらせられるはずもないが、世間からながめた時は徳川氏をつぶす手段と思うであろう。御一新となってまだ間もない。かくもにわかに方向を転換することは、朝廷も徳川氏に対して御遠慮あるべきはずである。先帝にもこの事にはすこぶる叡慮を悩ませられたと言って、大原卿はその心配をひそかに松平春嶽にもらしたという。

 当時、京都は兵乱のあとを承《う》けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸|堺《さかい》の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし、人心の激昂《げきこう》もはなはだしい。この際、公使謁見の接待を命ぜられた新政府の人たち、小松|帯刀《たてわき》、木戸準一郎、後藤象次郎《ごとうしょうじろう》、伊藤俊介、それに京都旅館の準備と接待とを命ぜられた中井|弘蔵《こうぞう》なぞは、どんな手配りをしてもその勤めを果たさねばならない。京都にある三大寺院は公使らの旅館にあてるために準備された。三藩の兵隊はまた、それぞれの寺院に分かれて宿泊する公使らを衛《まも》ることになった。尾州兵は智恩院《ちおんいん》。薩州兵は相国寺《しょうこくじ》。加州兵は南禅寺《なんぜんじ》。


 外国使臣一行の異様な行装《こうそう》を見ようとして遠近から集まって来た老若男女の群れは京都の町々を埋《うず》めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都の旅館に到着した翌々日だ。その前日は雨で、一行はいずれも騎馬、あるいは駕籠《かご》を用い、中井、伊藤らの官吏に伴われながら、新政府の大官貴顕と聞こえた三条、岩倉、鍋島《なべしま》、毛利、東久世の諸邸を回礼したと伝えらるることすら、大変な評判になっているころだ。
 いよいよその日の午後には、新帝も南殿に出御《しゅつぎょ》して各国代表者の御挨拶《ごあいさつ》を受けさせられる、公使らの随行員にまで謁見を許される、その間には楽人の奏楽まである、このうわさが人の口から口へと伝わった。新政府の処置挙動に不満を抱《いだ》くものはもとより少なくない。こんな外国の侵入者がわが禁闕《きんけつ》の下《もと》に至るのは許しがたいことだとして、攘夷の決行されないのを慷慨《こうがい》するものもある。官吏ともあろうものが夷狄《いてき》の輩《ともがら》を引いて皇帝陛下の謁見を許すごときは、そもそも国体を汚すの罪人だというような言葉を書きつらね、係りの官吏および外国公使を誅戮《ちゅうりく》すべしなどとした壁書も見いだされる。腕をまくるもの、歯ぎしりをかむものは、激しい好奇心に燃えている
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