けたものの方が、参った――と言い出すんです。まあ、どこから会津戦争のことなぞを覚えて来るんでしょう。あんなちいさな子供がですよ。」
十月も末に近くなって、毎年定例の恵比寿講《えびすこう》を祝うころになると、全く東北方面も平定し、従軍士卒の帰還を迎える日が来た。過ぐる閏《うるう》四月に、尾州の御隠居(徳川|慶勝《よしかつ》)が朝命をうけて甲信警備の部署を名古屋に定め、自ら千五百の兵を指揮して太田に出陣し、家老|千賀与八郎《ちがよはちろう》は先鋒《せんぽう》総括として北越に進軍した日から数えると、七か月にもなる。近国の諸侯で尾州藩に属し応援を命ぜられたのは、三河《みかわ》の八藩、遠江《とおとうみ》の四藩、駿河《するが》の三藩、美濃の八藩、信濃《しなの》の十一藩を数える。当時北越方面の形勢がいかに重大で、かつ危急を告げていたかは、これらの中国諸藩の動きを見てもおおよそ想像せられよう。
もはや、東山道軍と共に率先して戦地に赴《おもむ》いた山吹藩《やまぶきはん》の諸隊は伊那の谷に帰り、北越方面に出動した高遠《たかとお》、飯田《いいだ》二藩の諸隊も続々と帰国を急ぎつつあった。越後口から奥州
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