、広い囲炉裏ばたの片すみから二階への箱梯子《はこばしご》を登った。
「お父《とっ》さん。」
 と声をかけて置いて、彼は二階の西向きの窓に近く行った。提灯《ちょうちん》でもつけて水をくむらしい物音が隣家の深い井戸の方から、その窓のところに響けて来ていた。
「お父さん、」とまた彼は窓に近い位置から、次ぎの部屋《へや》に寝ていた金兵衛に声をかけた。「今ごろ、本陣じゃ水をくみ上げています。釣瓶繩《つるべなわ》を繰る音がします。」
 金兵衛は東南を枕《まくら》にして、行燈《あんどん》を引きよせ、三十年来欠かしたことのないような日記をつけているところだった。伊之助の言うことはすぐ金兵衛にも読めた。
「吉左衛門さんもおわるいと見えるわい。」
 と金兵衛は身につまされるように言って、そばへ来た伊之助と同じようにしばらく耳を澄ましていた。この隠居は痰《たん》が出て歩行も自由でないの、心やすい人のほかはあまり物も言いたくないの、それもざっと挨拶《あいさつ》ぐらいにとどめてめんどうな話は御免こうむるのと言っているが、持って生まれた性分《しょうぶん》から枕《まくら》の上でもじっとしていない人だ。
「さっき、わ
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