。このオランダ人が兵庫の港というものを早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫は摂津《せっつ》の国にあって、明石《あかし》から五里である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨《すま》の山から東方に当たって海上に突き出している、これは自然のものではなくて平家《へいけ》一門の首領が良港を作ろうとして造ったものだと言ってある。おそらくこの工事に費やされたる労力および費用は莫大《ばくだい》なものであろう、工事中海波のため二回までも破壊され、日本の一勇士が身を海中に投じて海神の怒りをしずめたために、かろうじてこれを竣工《しゅんこう》することができたとの伝説も残っていると言ってある。この兵庫は下《しも》の関《せき》から大坂に至る間の最後の良港であって、使節フウテンハイムの一行が到着した時は三百|艘《そう》以上の船が碇泊《ていはく》しているのを見た、兵庫市には城はない、その大きさは長崎ぐらいはあろう、海浜の人家は茅屋《あばらや》のみであるが、奥の方に当たってやや大きなのがあるとも言ってある。
 こんな先着の案内者がある。しかし、それらの初期の渡来者がいかに身を屈して、この国の政治、宗教、風俗
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