うは、彼には恐ろしいことであった。いつでもそこから逃げ込むようにするところは、養父より譲られた屋根の下よりほかになかった。頼むは、忠、孝、正直、倹約、忍耐、それから足ることを知り分に安んぜよとの町人の教えよりほかになかった。
 そういう彼は少年期から青年期のはじめへかけてを、学問、宗教、工芸、商業なぞの早く発達した隣国の美濃《みの》に送った人で、文字の嗜《たしな》みのない男でもない。日ごろ半蔵を感心させるほどの素直な歌を詠《よ》む。彼が開いて見る本の中には京大坂の町人の手に成った古版物や新版物の類もある。そういうものから彼が見つけて来たのは、平常な心をもつものの住む世界であった。彼は見るもの聞くものから揺られ通しに揺られていて、ほとほと彼の求めるような安らかさも、やさしさも、柔らかさも得られないとしている。彼は都会の町人が狭い路地なぞを選んで、そこに隠れ住むあのわびを愛する。また、あの細《ほそ》みを愛する。彼は養子らしいつつしみ深さから、自分の周囲にある人たちのことばかりでなく、みずから志士と許してこの街道を往来する同時代の人たちのあの度はずれた興奮を考えて見ることもある。驚かずにはい
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