九月の下旬から中津川の方へ遊びに行き、月がかわって馬籠に帰って来ると持病の痰《たん》が出て、そのまま隠宅へも戻《もど》らずに本家の二階に寝込んでいるからであった。伊之助にしても、お富にしても、二人は両養子である。隣家に病む吉左衛門よりも年長の七十二歳にもなる養父がいかに精力家だからとはいいながら、もうそう長いこともあるまいと言い合って、なんでもしたいことはさせるがいいとも言い合って、夫婦共に腫物《はれもの》にさわるようにしている。
 ちょうどお富は夕飯のしたくにかかっていたが、台所の流しもとの方からまた用事ありげに夫のそばへ来た。見ると、夫は何か独語《ひとりごと》を言いながら、黒光りのする大黒柱《だいこくばしら》の前を往《い》ったり来たりしていた。
「もうすこし、あたりまえということが大切に思われてもいいがナ。」
「まあ、あなたは何を言っていらっしゃるんですかね。」
「いや、おれはお父《とっ》さんに対して言ってるんじゃない。今の世の中に対してそう言ってるんさ。」
 この伊之助の言うことがお富を笑わせもし、あきれさせもした。何が「あたりまえ」で、何がそんな独語《ひとりごと》を言わせるのや
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