できていますな。」
 問屋九郎兵衛の言い草だ。


「伊之助さん――どうやらこの分じゃ、村からけが人も出さずに済みそうですね。」
「例の百姓一揆のですか。そう言えば、与川《よがわ》じゃ七人だけ、福島のお役所へ呼び出されることになったそうです。ところが七人が七人とも、途中で欠落《かけおち》してしまったという話でさ。」
 半蔵と伊之助とは峠でこんな言葉をかわして笑った。
 とりあえず松本辺まで行ってそれから越後口へ向かうという松下千里が郷里を離れて行く後ろ姿を見送った後、半蔵は伊之助と連れだってもと来た道を帰るばかりになった。峠のふもとをめぐる坂になった道、浅い谷、その辺は半蔵が歩くことを楽しみにするところだ。そこいらではもう暑さを呼ぶような山の蝉《せみ》も鳴き出した。
 非常時の夏はこんな辺鄙《へんぴ》な宿はずれにも争われない。会津戦争の空気はなんとなく各自の生活に浸って来た。それを半蔵らは街道で行きあう村の子供の姿にも、畠《はたけ》の方へ通う百姓の姿にも、牛をひいて本宿の方へ荷をつけに行く峠村の牛方仲間の姿にも読むことができた。時には「尾州藩御用」とした戦地行きの荷物が駄馬《だば》の背
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