福島の夏祭りもやって来るようになった。馬籠荒町の禰宜《ねぎ》、松下千里は有志の者としてであるが、越後方面への出発の日には朝早く来て半蔵の家の門をたたいた。
「禰宜さま、お早いなし。」
 と言いながら下男の佐吉が本陣表門の繰り戸の扉《とびら》をあけて、千里を迎え入れた。明けやすい街道の空には人ッ子|一人《ひとり》通るものがない。宿場の活動もまだ始まっていない。そんな早いころに千里はすっかりしたくのできたいでたちで、家伝来の長い刀を袋のまま背中に負い、巻き畳《たた》んだ粗《あら》い毛布《けっと》を肩に掛け、風呂敷包《ふろしきづつ》みまで腰に結び着けて、朝じめりのした坂道を荒町から登って来た。
 この禰宜は半蔵のところへ別れを告げに来たばかりでなく、関所の通り手形をもらい受けに来た。これから戦地の方へ赴《おもむ》く諏訪《すわ》分社の禰宜が通行を自由にするためには、宿役人の署名と馬籠宿の焼印《やきいん》の押してある一枚の木札が必要であった。半蔵はすでにその署名までして置いてあったので、それを千里に渡し、妻のお民を呼んで自分でも見送りのしたくした。庄屋らしい短い袴《はかま》に、草履《ぞうり》ばき
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