滞坂中の各国公使の間には、帝に謁見の日限を確定して、それをもって盟《ちか》いの意味をはっきりさせたいと言うものと、ひどく上京を躊躇《ちゅうちょ》するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内《さんだい》は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところへ伝えられた。三条岩倉両公も困って、なんとかして奥向きを説諭してくれるようにとの伝言も添えてあった。
これには通禧も驚かされた。早速《さっそく》京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦《しんぼく》の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる以上はその留守居、すなわち各国公使にお会いにならぬという事はできない、これはお会いなさるがいい、西洋各国は互いに交際を親密にしている、日本のように別になっていない、諸藩の留守居と思《おぼ》し召すがいいと申し上げた。
もはや、周囲の事情はこの島国の孤立を許さない。その時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばならなかった。かつては幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人《けとうじん》と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとした岩瀬肥後《いわせひご》なぞの心を苦しめた立場は、ちょうど新政府当局者の身に回って来た。たとい、相手があの米国のハリスの言い残したように、「交易による世界一統」というごとき目的を立てて、工業その他のまだおくれていた極東の事情も顧みずに進み来るようなものであっても――ともかくも、国の上下をあげて、この際大いに譲らねばならなかった。
東征軍が出発した後の大坂は、あたかも大きな潮の引いたあとのようになった。留守を預かる諸藩の人たちと、出征兵士のことを気づかう市民とだけがそのあとに残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州《びしゅう》の御隠居や越前の松平|春嶽《しゅんがく》を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜その人は江戸|東叡山《とうえいざん》の寛永寺《かんえいじ》にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
大坂西本願寺での各国公使との会見が行なわれた翌日のことである。中寺町にあるフランス公使館からは、各国公使と共に日本側の主《おも》な委員を晩食に招きたいと言って来た。江戸旧幕府の同情者として知られているフランス公使ロセスすら、前日の会見には満足して、この好意を寄せて来たのだ。
やがて公使館からは迎えのものがやって来るようになった。日本側からの出席者は大坂の知事|醍醐忠順《だいごただおさ》、宇和島|伊予守《いよのかみ》、それに通禧ときまった。そこで、三人は出かけた。
その晩、通禧らは何よりの土産《みやげ》を持参した。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思《おぼ》し召して各国公使に御対面あるがいいとの通禧の進言が奥向きにもいれられたのである。
中寺町のフランス公使館には主人側のロセスをはじめ、客分の公使たちまで集まって通禧らを待ち受けていた。そこには、まるで日本人のように話す書記官メルメット・カションがいて、通訳には事を欠かない。このカションが、
「さあ、これです。」
と、わざわざ日本語で言って見せて、通禧らの土産話をロセスにも取り次ぎ、他の公使仲間にも取り次いだ。
「ボン。」
ロセスがその時の答えは、そんなに短かかった。思わず彼の口をついて出たその短かい言葉は、万事好都合に運んだという意味を通わせた。英国のパアクス、米国のファルケンボルグ、伊国のトウール、普国のブランド、オランダのブロック――そこに招かれて来ている公使の面々はいずれも喜んで、十八日には朝延へ罷《まか》り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものがある。自分らはもう長いこと、この日の来るのを待っていたと言うものもある。
晩食。食卓の用意もすでにできたと言って、カションは一同の着席をすすめに来た。その時、宇和島少将は通禧の袖《そで》を引いて、
「東久世さん、わたしはこういうところで馳走《ちそう》になったことがない。万事、貴公によろしく頼みますよ。」
「どうも、そう言われても、わたしも困る。まあ、皆のするとおりにすれば、それでよろしい
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