のでしょう。」
通禧の挨拶《あいさつ》だ。
配膳《はいぜん》の代わりに一つの大きな卓を置いたような食堂の光景が、やがて通禧らの目に映った。そこの椅子《いす》には腰掛ける人によって高下の格のさだまりがあるでもなかったが、でもだれの席をどこに置くかというような心づかいの細かさはあらわれていた。カションの案内で、通禧らはその晩の正客の席として設けてあるらしいところに着いた。パアクスの隣には醍醐大納言、ファルケンボルグとさしむかいには宇和島少将というふうに。そこには鳥の嘴《くちばし》のように動かせる箸《はし》のかわりに、獣の爪《つめ》のようなフォークが置いてある。吸い物に使う大きな匙《さじ》と、きれいに磨《みが》いた幾本かのナイフも添えてある。食卓用の白い口|拭《ふ》きを折り畳《たた》んで、客の前に置いてあるのも異国の風俗だ。食わせる物の出し方も変わっている。吸い物の皿《さら》を出す前に持って来るパンは、この国のことで言って見るなら握飯《むすび》の代わりだ。
カションはもてなし顔に言った。
「さあ、どうぞおはじめください。フランスの料理はお口に合いますか、どうですか。」
給仕人《きゅうじにん》が料理を盛った大きな皿を運んで来て、客のうしろから好きな物を取れと勤めるたびに、通禧らは西洋人のするとおりにした。パアクスが鳥の肉を取れば、こちらでも鳥の肉を取った。ファルケンボルグが野菜を取れば、こちらでも野菜を取った。食事の間に、通禧はおりおり連れの方へ目をやったが、醍醐大納言も、宇和島少将も、共にすこし勝手が違うというふうで、主人の公使が馳走《ちそう》ぶりに勧める仏国産の白いチーズも、わずかにその香気をかいで見たばかり。古い葡萄酒《ぶどうしゅ》ですら、そんな席でゆっくり味わわれるものとは見えなかった。
しかし、この食卓の上は楽しかった。そのうちに日本側の客を置いて、一人《ひとり》立ち、二人《ふたり》立ち、公使らは皆席を立ってしまった。変なことではある。その考えがすぐに通禧に来た。醍醐大納言や宇和島少将は、と見ると、これもいぶかしそうな顔つきである。なんぞ変が起こったのであろうか、それまで話を持って行って、互いにあたりを見回したころは、日本側の三人の客だけしかその食堂のなかに残っていなかった。
泉州《せんしゅう》、堺港《さかいみなと》の旭茶屋《あさひぢゃや》に、暴動の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐《とさ》の家中のものに襲われたとの報知《しらせ》である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃《そげき》されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。
翌十六日の朝、とりあえず通禧は米国公使館を訪《たず》ねた。ファルケンボルグにあって、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めねばならぬ。その考えから、通禧らは米国公使にしかるべく取りなしを依頼しようとした。
すると、フランス側からは早速《さっそく》抗議を提出して来た。それは御門《みかど》政府外国事務掛り、東久世少将、伊達伊予守両閣下へとして、次ぎのような手詰めの談判を意味したものであった。
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「……かくのごとき事件は世間まれに見聞いたし候《そうろう》事にて、禽獣《きんじゅう》の所行と申すべし。ついては仏国ミニストル、ひとまず軍艦ウエストの船中へ引き取りおり、なお右行くえ相知れざる人々死生にかかわらず残らず当方へ御差し返し下されたく、明朝第八時まで猶予いたし候間、この段大坂を領せらるる当時の政府へ申し進じ置き候。万一、右のとおり御処置これなきにおいてはいかようの御|詫《わ》び御申し入れなされ候とも、かかる文明国の法則に違《たが》い、のみならずことにこのほど取りきめし条約書および条約の文に違背し、また当今御門政府の周囲にありて重役を勤めおる大名の家来にかくのごときの処置行なわれ候ては、これに対し相当と相心得候処置に及び候事にこれあるべく候間、この段申し進じ置き候。謹言。」
千八百六十八年二月、大坂において
[#地から11字上げ]日本在留
[#地から2字上げ]仏国全権レオン・ロセス
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ともかくも、五代、岩下らの働きから、十七日の朝八時とは言わないで、正午まで待ってもら
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