ったほど健康を回復した人である。でも、吉左衛門の老衰は争われなかった。からだの弱って来たせいかして、すこしのことにもすぐに心を傷《いた》めた。そして一晩じゅう眠られないという話はよくあった。どうして、半蔵の方からそこへ持ち出して見たように、ありのままを父にも告げたらとは、この継母には考えられもしなかった。
「ごらんな。」とまたおまんは言った。「お父《とっ》さんがこの前の大病だって、気をおつかいなさるからだよ、お父さんはお前、そういう人だよ。」
「でも、こんなことは隠し切れるものでもありませんし、わたしは話した方がいいと思いますが。」
「なあに、お前、あのとおりお父さんは裏の二階に引っ込みきりさ。わたしが出入りのものによく言って聞かせて、口留めをして置いたら、お父さんの耳に入りッこはないよ。」
「さあ、どういうものでしょうか。」
「いえ、それはわたしが請け合う。あのお父さんのからだにさわりでもしたら、それこそ取り返しはつかないからね。」
父のからだにさわると言われては、半蔵も継母の意見に任せるのほかはなかった。
本陣の母屋《もや》から裏の隠居所の方へ通って行く継母を見送った後、半蔵は周囲を見回した。おまんがあれほど心配するように、何事も父の耳へは入れまいとすればするほど、よけいに隠し切れそうもないようなこの改革の評判が早くも人の口から口へと伝わって行った。これは馬籠一宿の事にとどまらない。同じような事は中津川にも起こり、落合にも起こり、妻籠《つまご》にも起こっている。現に、この改革に不服を唱え出した木曾福島をはじめ、奈良井《ならい》、宮《みや》の越《こし》、上松《あげまつ》、三留野《みどの》、都合五か宿の木曾谷の庄屋問屋はいずれも白洲《しらす》へ呼び出され、吟味のかどがあるということで退役を申し付けられ、親類身内のもの以外には面会も許さないほどの謹慎を命ぜられた。在方《ざいかた》としては、黒川村の庄屋が同じように退役を申し付けられたほどのきびしさだ。
こういう時の彼の相談相手は、なんと言っても隣家の主人であった。「半蔵さん、それはこうしたらいいでしょう」とか、「ああしたらいいでしょう」とか心からの温情をもって助言をしてくれるのも、宿内の旦那衆仲間からはいくらか継子《ままこ》扱いにされるあの伊之助のほかになかった。彼は裏の隠居所の方に気を配りながらも、これまでの長い奉公が武家のためにあったことを宿内の旦那衆に説き、復古の大事業の始まったことをも説いて、多くの不平の声を取りしずめねばならなかった。同時に、この改革の趣意がもっと世の中を明るくするためにあることをも説いて、簡易軽便の風に移ることを、旧御伝馬役の人々に勧めねばならなかった。理想にしたがえば、この改革は当然である。この改革にしたがえば、父祖伝来の名誉職のように考えて来た旧《ふる》い家業を捨てなければならない。彼の胸も騒ぎつづけた。
福島総管所の方へ呼び出された二人《ふたり》の総代は旧暦二月の雪どけの道を踏んで帰って来た。この人たちが携え帰った総管所の「心得書付《こころえかきつけ》」はおおよそ左のようなものであった。
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一、東山道何宿伝馬所と申す印鑑をつくり、これまでの問屋と申す印鑑は取り捨て申すべきこと。
一、問屋付けの諸帳面、今後新規に相改め、御印鑑継立て、御証文継立て、御定めの賃銭払い継立てのものなど帳分けにいたし、付け込みかた混雑いたさざるよう取り計らうべきこと。
一、筆、墨、紙、蝋燭《ろうそく》、炭の入用など、別帳にいたし、怠らずくわしく記入のこと。
一、宿駕籠《しゅくかご》、桐油《とうゆ》、提灯《ちょうちん》等、これまでのもの相改め、これまたしかるべく記入のこと。
一、新規の伝馬所には、元締役《もとじめやく》、勘定役、書記役、帳付け、人足指《にんそくざし》、馬指《うまざし》など――一役につき二人ほどずつ。そのうち、勘定役の儀は三人にてもしかるべし。その方どものうち申し合わせ、または鬮引《くじび》き等にて元締、勘定、書記の三役を取りきめ、帳付け以下の儀は右三役にて相選み、人名一両日中に申し出《い》づべきこと。もっとも、それぞれ月給の儀は追って相談あるべきこと。
一、宿駅助郷一致の御趣意につき、助郷村々に対し干渉がましき儀これなきよう、温和丁寧に仕向け候《そうろう》よういたすべきこと。
一、御一新|成就《じょうじゅ》いたし候までは、二十五人二十五匹の宿人馬もまずまずこれまでのとおり立て置かれ候につき、御印鑑ならびに御証文にて継立ての分は宿人馬にて相勤め、付近の助郷村々より出人足《でにんそく》の儀は御定め賃銭払いの継立てにつかわし、右の刎銭《はねせん》を取り立つることは相成らず候。助郷人馬への賃銭は残らず相渡し、帳面
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