ご》まで――二里の山道はえらいぞなし。」
 兼吉の言い草だ。
 峠の上から一石栃《いちこくとち》(俗に一石)を経て妻籠までの間は、大きな谷の入り口に当たり、木曾路でも深い森林の中の街道筋である。過ぐる年月の間、諸大名諸公役らの大きな通行があるごとに、伊那方面から徴集される村民が彼らの鍬《くわ》を捨て、彼らの田園を離れ、木曾下四か宿への当分助郷、あるいは大助郷と言って、山蛭《やまびる》や蚋《ぶよ》なぞの多い四里あまりのけわしい嶺《みね》の向こうから通って来たのもその山道である。
 背中にしたは、なんと言っても慣れない荷だ。次第に半蔵は連れの人足たちからおくれるようになった。荷馬の歩みに調子を合わせるような鈴音からも遠くなった。時には兼吉その他の百姓が途中に彼を待ち合わせていてくれることもある。平素から重い物を背負い慣れた肩と、山の中で働き慣れた腰骨とを持つ百姓たちとも違い、彼は手も脚《あし》も震えて来た。待ち受けていた百姓たちはそれを見ると、さかんに快活に笑って、またさっさと先へ歩き出すというふうだ。
 その日ほど彼も額からにじみ出る膏《あぶら》のような冷たい汗を流したことはない。どうかすると、降って来る小雪が彼の口の中へも舞い込んだ。年の暮れのことで、凍り道にも行き悩む。熊笹《くまざさ》を鳴らす勁《つよ》い風はつれなくとも、しかし彼は宿内の小前《こまえ》のものと共に、同じ仕事を分けることをむしろ楽しみに思った。また彼は勇気をふるい起こし、道を縦横に踏んで、峠の上で見つけて来た金剛杖《こんごうづえ》を力に谷深く進んで行った。ようやく妻籠手前の橋場というところまでたどり着いて、あの大橋を渡るころには、後方からやって来た尾州藩の一隊もやがて彼に追いついた。

       五

 明治二年の二月を迎えるころは、半蔵らはもはや革新潮流の渦《うず》の中にいた。その勢いは、一方に版籍奉還奏請の声となり、一方には神仏|混淆《こんこう》禁止の叫びにまで広がった。しかし、それがまだ実現の運びにも至らないうちに、交通の要路に当たるこの街道筋には早くもいろいろなことがあらわれて来た。
 木曾福島の関所もすでに崩《くず》れて行った。暮れに、七、八十人の尾州藩の一隊が木曾福島をさしてこの馬籠峠の上を急いだは、実は同藩の槍士隊《そうしたい》で、尾州公が朝命を受け関所の引き渡しを山村氏に迫る意味のものであったことも、後になってわかった。山村家であの関所を護《まも》るために備えて置いてあった大砲二門、車台二|輛《りょう》、小銃二十|挺《ちょう》、弓|十張《とはり》、槍《やり》十二筋、三つ道具二通り、その他の諸道具がすべて尾州藩に引き渡されたのは、暮れの二十六日であった。その時の福島方の立ち合いは、白洲《しらす》新五左衛門と原佐平太とで、騎馬組一列、小頭《こがしら》足軽一統、持ち運びの中間小者《ちゅうげんこもの》など数十人で関所を引き払った。もっとも、尾州方の依頼で騎馬組七人だけは残ったが、二月六日にはすでに廃関が仰せ出された。
 福島代官所の廃止もそのあとに続いた。山村氏が木曾谷中の支配も当分立ち合いの名儀にとどまって、実際の指揮はすでに福島興禅寺を仮の本営とする尾州|御側用人《おそばようにん》吉田猿松《よしださるまつ》の手に移った。多年山村氏の配下にあった家中衆も、すべてお暇《いとま》を告げることになり、追って禄高《ろくだか》等の御沙汰《ごさた》のある日を待てと言われるような時がやって来た。
 木曾谷の人民はこんなふうにして新しい主人公を迎えた。福島の代官所もやがて総管所と改められるころには、御一新の方針にもとづく各宿駅の問屋の廃止、および年寄役の廃止を告げる総管所からのお触れが半蔵のもとにも届いた。それには人馬|継立《つぎた》ての場所を今後は伝馬所と唱えるはずである。ついては二名の宿方総代を至急福島へ出頭させるようにとも認《したた》めてある。もはや、革新につぐ革新、破壊につぐ破壊だ。


「お母《っか》さん、いよいよ問屋も御廃止ということになりました。」
「そうだそうな。わたしはお民からも聞いたよ。」
「会所もいよいよ解散です。年寄役というものも御廃止です。」
 半蔵と継母のおまんとはこんな言葉をかわしながら、互いの顔を見合わせた。
「さっき、わたしはお民とも相談したよ。こんな話を聞いたらあのお父《とっ》さんはきっとびっくりなさる。まあ、お前にも言って置くが、このことはお父さんの耳へは入れないことにせまいか。」
 とおまんが言い出した。
 さすがに賢い継母も一切を父吉左衛門には隠そうと言うほど狼狽《ろうばい》していた。その年の正月にはおくればせながら父も古稀《こき》の祝いを兼ねて、病中世話になった親戚《しんせき》知人のもとへしるしばかりの蕎麦《そば》を配
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