みならず、水戸藩では朝命を奉じて佐幕派たる諸生党を討伐するというほどの一変した形勢の中にいた。彼としては真《まこと》に時節到来の感があったであろう。間もなく彼は藩命により、多年|怨《うら》みの敵なる市川三左衛門らの徒を捕縛すべく従者数名を伴い奥州に赴《おもむ》いたという。官軍が大挙して奥羽同盟の軍を撃破するため東北方面に向かった時は、水戸藩でも会津に兵を出した。その中に、同藩銃隊長として奮戦する彼を見かけたものがあったとの話もある。
すべてがこの調子だとも言えない。水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もなく、また維新直後にそれほど恐怖時代を顕出した地方もめずらしいと言われる。しかし、信州|伊那《いな》の谷あたりだけでも、過ぐる年の密勅事件に関係して自ら毒薬を仰いだもの、元治年代の長州志士らと運命を共にしたもの、京都六角通りの牢屋《ろうや》に囚《とら》われの身となっていたものなぞは数え切れないほどある。いよいよ東北戦争の結果も明らかになったころは、それらの恨みをのんで倒れて行ったものの記憶や、あるいは闇黒《あんこく》からはい出したものの思い出のさまざまが、眼前の霜葉《しもは》枯れ葉と共にまた多くの人の胸に帰って来た。
今さら、過ぐる長州征伐の結果をここに引き合いに出すまでもないが、あの征伐の一大失敗が徳川方を覚醒《かくせい》させ、封建諸制度の革新を促したことは争われなかった。いわゆる慶応の改革がそれで、二百年間の繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が非常な勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風《ふう》に移ったのも皆その結果であった。旧《ふる》い伝馬制度の改革が企てられたのもあの時からで、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、問屋場|刎銭《はねせん》の割合も少なくなって、街道宿泊の方法まで簡易に改められるようになって行きかけていた。今度の東北戦争の結果は一層この勢いを助けもし広げもして、軍制武器兵服の改革は言うまでもなく、身分の打破、世襲の打破、主従関係の打破、その他根深く澱《よど》み果てた一切の封建的なものの打破から、もはや廃藩ということを考えるものもあるほどの驚くべき新陳代謝を促すようになった。
何事も土台から。旧時代からの藩の存在や寺院の権利が問題とされる前に、現実社会の動脈ともいうべき交通組織はまず変わりかけて行きつつあった。
江戸の方にあった道中奉行所の代わりに京都|駅逓司《えきていし》の設置、定助郷《じょうすけごう》その他|種々《さまざま》な助郷名目の廃止なぞは皆この消息を語っていた。従来、諸公役の通行と普通旅人の通行には荷物の貫目にまで非常な差別のあったものであるが、それらの弊習も改められ、勅使以下の通行に特別の扱いすることも一切廃止され、公領私領の差別なくすべて助郷に編成されることになった。諸藩の旅行者たりとも皆|相対《あいたい》賃銭を払って人馬を使用すべきこと、助郷村民の苦痛とする刎銭《はねせん》なるものも廃されて、賃銭はすべて一様に割り渡すべきこと、それには宿駅常備の御伝馬とそれを補助する助郷人馬との間になんらの差別を設けないこと――これらの駅逓司の方針は、いずれも沿道付近に住む百姓と宿場の町人ないし伝馬役との課役を平等にするためでないものはなかった。多年の問題なる助郷農民の解放は、すくなくもその時に第一歩を踏み出したのである。
しかし、この宿場の改革には馬籠あたりでもぶつぶつ言い出すものがあった。その声は桝田屋《ますだや》および出店《でみせ》をはじめ、蓬莱屋《ほうらいや》、梅屋、その他の分家に当たる馬籠町内の旦那衆の中から出、二十五軒ある旧《ふる》い御伝馬役の中からも出た。もともと町内の旦那衆とても根は百姓の出であって、最初は梅屋の人足宿、桝田屋の旅籠屋《はたごや》というふうに、追い追いと転業するものができ、身分としては卑《ひく》い町人に甘んじたものであるが、いつのまにかこれらの人たちが百姓の上になった。かつて西の領地よりする参覲交代《さんきんこうたい》の諸大名がまださかんにこの街道を往来したころ、木曾《きそ》寄せの人足だけでは手が足りないと言われるごとに、伊那《いな》の谷に住む百姓三十一か村、後には百十九か村のものが木曾への通路にあたる風越山《かざこしやま》の山道を越しては助郷の勤めに通《かよ》って来たが、彼ら百姓のこの労役に苦しみつつあった時は、むしろ宿内の町人が手に唾《つば》をして各自の身代を築き上げた時であった。中には江戸に時めくお役人に取り入り、そのお声がかりから尾州侯の御用達《ごようたし》を勤めるほどのものも出て来た。どうして、これらの人たちが最下等の人民として農以下に賤《いや》しめられるほどの身分に満足するはずもない。頭を押え
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