られれば押えられるほど、奢《おご》りも増長して、下着に郡内縞《ぐんないじま》、または時花《はやり》小紋、上には縮緬《ちりめん》の羽織をかさね、袴《はかま》、帯、腰の物までそれに順じ、知行取《ちぎょうと》りか乗り物にでも乗りそうな人柄に見えるのをよいとした時代もあったのである。
さすがに二代目の桝田屋惣右衛門《ますだやそうえもん》はこれらの人たちの中ですこし毛色を異にしていた。幕府時代における町人圧迫の方針から、彼らの商業も、彼らの道徳も、所詮《しょせん》ゆがめられずには発達しなかったが、そういう空気の中に生《お》い立ちながらも、この人ばかりは百姓の元を忘れなかった。すくなくも人々の得生ということを考え、この生はみな天から得たものとして、親先祖から譲られた家督諸道具その他一切のものは天よりの預かり物と心得、随分大切に預かれば間違いないとその子に教え、今の日本の宝の一つなる金銀もそれをわが物と心得て私用に費やそうものなら、いつか天道へもれ聞こえる時が来ると教えたのもこの人だ。八十年来の浮世の思い出として、大きな造り酒屋の見世先《みせさき》にすわりながら酒の一番火入れなどするわが子のために覚え書きを綴《つづ》り、桝田屋一代目存生中の咄《はなし》のあらましから、分家以前の先祖代々より困窮な百姓であったこと、当時何不足なく暮らすことのできるようになったというのも全く先祖と両親のおかげであることを語り、人は得生の元に帰りたいものだと書き残したのもこの人だ。亭主《ていしゅ》たる名称を継いだものでも、常は綿布、夏は布羽織、特別のおりには糸縞《いとじま》か上は紬《つむぎ》までに定めて置いて、右より上の衣類等は用意に及ばない、町人は内輪に勤めるのが何事につけても安気《あんき》であると思うと書き残したのもまたこの人だ。この桝田屋の二代目惣右衛門は、わが子が得生のすくないくせに、口利口《くちりこう》で、人に出過ぎ、ことに宿役人なぞの末に列《つら》なるところから、自然と人の敬うにつけてもとかく人目にあまると言って、百姓時代の出発点を忘れそうな子孫のことを案じながら死んだ。しかし、三代目、四代目となるうちには、それほど惣右衛門父子が馬籠のような村にあって激しい生活苦とたたかった歴史を知らない。初代の家内が内職に豆腐屋までして、夜通し石臼《いしうす》をひき、夜一夜安気に眠らなかったというようなことは、だんだん遠い夢物語のようになって行った。それに、宿内の年寄役、組頭、皆それは村民の入札で定めたのが役替《やくが》えの時の古い慣例で、役替え札開きの日というがあり、礼高で当選したものが宿役人を勤めたのである。そのおりの当選者が木曾福島にある代官地へのお目見えには、両旦那様をはじめ、家老、用人、勘定方から、下は徒士《かち》、足軽、勘定下組の衆にまでそれぞれ扇子なぞを配ったのを見ても、安永《あんえい》年代のころにはまだこの選挙が行なわれ、したがって競争も激しかったことがわかる。いつのまにか、これとてもすたれた。年寄役も、組頭も、皆世襲に変わった。いかに不向きでもその家に生まれ、またはその家から分かれたものは自然に人から敬われ、旦那衆と立てられるようになって来た。あだかも江戸あたりの町人仲間に、株というものが固定してしまったように。
この旦那衆だ。中にはいろいろな人がある。駅逓司《えきていし》の趣意はまだ皆の間に徹しないかして、一概にこれを過激な改革であるとなし、自分らの利害のみを考えるものも出て来た。古い宿場の御伝馬役として今までどおりのわがままも言えなくなるとみて取った人たちの助太刀《すけだち》は、一層その不平の声を深めた。
「これは宿場の盛衰にもかかわることだ。伏見屋の旦那あたりが先に立って、もっと骨を折ってくだすってもいい。」
旧御伝馬役の中には、こんなことを言い出したものもある。
民意の開発に重きを置いた尾州藩中の具眼者がまず京都駅逓司の方針に賛成したことは不思議でもない。このことが尾州領内の木曾地方に向かって働きかけるようになって行ったというのも、これまた不思議でもない。京都駅逓司の新方針によると、たとい諸藩の印鑑で保証する送り荷たりとも、これまでのように問屋場を素通りすることは許されない。公用藩用の名にかこつけて貫目を盗むことも許されない。袖《そで》の下もきかない。荷物という荷物の貫目は公私共に各問屋場で公平に改められることになった。
東京と京都との間をつなぐ木曾街道の中央にあって、多年宿場に衣食した馬籠の御伝馬役の人たちはこの改革に神経をとがらせずにはいられなかったのである。彼らの多くは、継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷村民へ押しつけるような従来の弊習に慣れている。諸大名諸公役の大げさな御通行のあったごとに、すくなくも
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