。おそらくこの不幸な勤王家はこんな全国統一の日の来たことすら知るまいとの話もある。
時代の空気の薄暗さがおよそいかなる程度のものであったかは、五年の天井裏からはい出してようやくこんな日のめを見ることのできた水戸《みと》の天狗連《てんぐれん》の話にもあらわれている。その侍は水戸家に仕えた大津地方の門閥家で、藤田《ふじた》小四郎らの筑波組《つくばぐみ》と一致の行動は執らなかったが、天狗残党の首領として反対党からしきりに捜索せられた人だ。辻々《つじつじ》には彼の首が百両で買い上げられるという高札まで建てられた人だ。水戸における天狗党と諸生党との激しい党派争いを想像するものは、直ちにその侍の位置を思い知るであろう。筑波組も西に走ったあとでは彼の同志はほとんど援《たす》けのない孤立のありさまであった。襲撃があるというので、一家こぞって逃げなければならない騒ぎだ。長男には家に召使いの爺《じい》をつけて逃がした。これはある農家に隠し、馬小屋の藁《わら》の中に馬と共に置いたが、人目については困るというので秣《まぐさ》の飼桶《かいおけ》をかぶせて置いた。夫人には二人《ふたり》の幼児と下女を一人《ひとり》連れさせて、かねて彼が後援もし危急を救ったこともある平潟《ひらがた》の知人のもとをたよって行けと教えた。これはお尋ね者が来ても決して匿《かく》してはならないとのきびしいお達しだからと言って断わられ、日暮れごろにとぼとぼと帰路についた。おりよくある村の農家のものが気の毒がって、そこに三、四日も置いてくれたので、襲撃も終わり危険もないと聞いてから夫人らは家に帰った。当時は市川三左衛門《いちかわさんざえもん》をはじめ諸生党の領袖《りょうしゅう》が水戸の国政を左右する際で、それらの反対党は幕府の後援により中山藩と連合して天狗残党を討《う》とうとしていたので、それを知った彼は場合によっては天王山《てんのうざん》に立てこもるつもりで、武器をしらべると銃が七|挺《ちょう》あるに過ぎない。土民らはまた蜂起《ほうき》して反対党の先鋒となり、竹槍《たけやり》や蓆旗《むしろばた》を立てて襲って来たので、彼の同志数十人はそのために斃《たお》れ、あるものは松平周防守《まつだいらすおうのかみ》の兵に捕えられ、彼は身をもって免かれるというありさまであった。その時の彼は、日中は山に隠れ、夜になってから歩いた。各村とも藩命によって出入り口に関所の設けがある。天狗党の残徒にとっては到底のがれる路《みち》もない。大胆にも彼はその途中から引き返し、潜行して自宅に戻《もど》って見ると、家はすでに侵掠《しんりゃく》を被って、ついに身の置きどころとてもなかったが、一策を案じてかくれたのがその天井裏だ。その時はまだ捜索隊がいて、毎日昼は家の内外をあらために来る。天井板をずばりずばり鎗で突き上げる。彼は梁《うつばり》の上にいながら、足下に白く光るとがった鎗先を見ては隠れていた。三峰山《みつみねさん》というは後方にそびえる山である。昼は人目につくのを恐れて天井裏にいても、夜は焼き打ちでもされてはとの懸念《けねん》から、その山に登って藪《やぶ》の中に様子をうかがい、夜の明けない先に天井裏に帰っているというのが彼の身を隠す毎日の方法であった。何を食ってこんな人が生きていられたろう。それには家のものが握飯《むすび》を二日分ずつ笊《ざる》に入れ、湯は土瓶《どびん》に入れて、押入れに置いてくれる。彼は押入れの天井板を取り除き、そこから天降《あまくだ》りで飲み食いするものにありつき、客でも来るごとにその押入れに潜んでいてそれとなく客の話に耳を澄ましたり世間の様子をうかがったりした。時には、次男が近所の子供を相手に隠れんぼをはじめ、押入れに隠れようとして、家にはいないはずの父をそこに見つける。まっ黒な顔。延びた髪と髯《ひげ》。光った目。その父が押入れの中ににらんで立っているのを見ると、次男はすぐに戸をぴしゃんとしめて他のところへ行って隠れた。子供心にもそれを口外しては悪いと考えたのであろう。時にはまた、用を達《た》すための彼が天井裏から床下に降りて行って、下男に見つけられることもある。驚くまいことか、下男はまっ黒な貉《むじな》のようなやつが縁の下にいると言って、それを告げに夫人のところへ走って行く。まさかそれが旦那《だんな》だとは夫人も言いかねて、貉か犬でもあろうから捧で突ッついて見よなぞと言い付けると、早速《さっそく》下男が竹竿《たけざお》を取り出して来て突こうとするから、たまらない。幸いその床下には大きな炉が切ってあって、彼はそのかげに隠れたこともある。五年の月日を彼はそんな暗いところに送った。いよいよ王政復古となったころは、彼は長い天井裏からはい出し、大手を振って自由に濶歩《かっぽ》しうる身となった。の
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