「何にしろ、戦《いくさ》に勝って来た勢いで、鼻息が荒いや。あれは先月の二十八日でした。妻籠へは鍬野《くわの》様からお知らせがあって、あすお着きになるおおぜいの御家中方へは、宿々でもごちそうする趣だから、妻籠でもその用意をするがいいなんて、そんなことを言って来ましたっけ。こちらはおおぜいの御通行だけでも難渋するところへもって来て、ごちそうの用意さ。大まごつきにも何にも。あのお知らせは馬籠へもありましたろう。」
「ありました。」と伊之助はそれを承《う》けて、「なんでも最初のお知らせのあった時は、お取り持ちのしかたが足りないとでも言われるのかぐらいに思っていました。奥筋の方でもあの御家中方には追い追い難儀をしたとありましたが、その意味がはっきりしませんでした。そこへ、また二度目の知らせがある。今度は飛脚で、しかも夜中にたたき起こされる。あの時ばかりは、わたしもびっくりしましたよ。上《かみ》四か宿の内で、宿役人が一人《ひとり》に女中が一人手打ちにされて、首を二つ受け取ったと言うんでしょう。」
「その話さ。三留野《みどの》あたりの旅籠屋《はたごや》じゃ、残らず震えながらお宿をしたとか聞きましたっけ。」と得右衛門が言う。
「待ってくださいよ。」と伊之助は思い出したように、「実は、あとでわたしも考えて見ました。これには何か子細があります。凱旋の酒の上ぐらいで、まさかそんな乱暴は働きますまい。福島辺は今、よほどごたごたしていて、官軍の迎え方が下《しも》四か宿とは違うんじゃありますまいか。その話をわたしは吾家《うち》の隠居にしましたところ、隠居はしばらく黙っていました。そのうちに、あの隠居が何を言い出すかと思いましたら、しかし街道の世話をする宿役人を手打ちにするなんて、はなはだもってわがままなしかただ、いくら官軍の天下になったからって、そんなわがままは許せない、ですとさ。」
「いや、その説にはわたしも賛成だ。」と寿平次は言った。「君のところの老人は金をもうけることにも抜け目がないが、あれでなかなか奇骨がある。」
奥州から越後の新発田《しばた》、村松、長岡《ながおか》、小千谷《おぢや》を経、さらに飯山《いいやま》、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍からそこへ帰って来た人がある。とがった三角がたの軍帽をかぶり、背嚢《はいのう》を襷掛《たすきが》けに負い、筒袖《つつそで》を身につけ、脚絆草鞋《きゃはんわらじ》ばきで、左の肩の上の錦《にしき》の小片《こぎれ》に官軍のしるしを見せたところは、実地を踏んで来た人の身軽ないでたちである。この人が荒町《あらまち》の禰宜《ねぎ》だ。腰にした長い刀のさしかたまで、めっきり身について来た松下千里だ。
千里は組頭庄助その他の出迎えのものに伴われて、まず本陣へ無事帰村の挨拶《あいさつ》に寄り、はじめて吉左衛門の病気を知ったと言いながら会所へも挨拶に立ち寄ったのであった。
「ヨウ、禰宜さま。」
その声は、問屋場の方にいる栄吉らからも、会所を出たりはいったりする小使いらの間からも起こった。軍帽もぬぎ、草鞋の紐《ひも》もといて、しばらく会所に休息の時を送って行く千里の周囲には、会津戦争の話を聞こうとする人々が集まった。その時まで店座敷に話し込んでいた寿平次や得右衛門までがまたそこへすわり直したくらいだ。
さすがに千里の話はくわしい。この禰宜が越後口より進んだ一隊に付属する兵粮方《ひょうろうかた》の一人として、はじめて若松城外の地を踏んだのは九月十四日とのことである。十九日未明には、もはや会津方の三人の使者が先に官軍に降《くだ》った米沢藩《よねざわはん》を通して開城降伏の意を伝えに来たとの風聞があった。それらの使者がいずれも深い笠《かさ》をかぶり、帯刀も捨て、自縛して官軍本営の簷下《のきした》に立たせられた姿は実にかわいそうであったとか。その時になると、白河口《しらかわぐち》よりするもの、米沢口よりするもの、保成口《ぼなりぐち》、越後口よりするもの、官軍参謀の集まって来たものも多く、評議もまちまちで、会津方が降伏の真偽も測りかねるとのうわさであった。翌二十日にはさらに会津藩の鈴木|為輔《ためすけ》、川村三助の両人が重役の書面を携えて国情を申し出るために、通路も絶えたような城中から進んで来た。彼千里はその二人の使者が兵卒の姿に身を変え、背中には大根を担《にな》って、官軍の本営に近づいて来たのを目撃したという。味方も敵も最前線にあるものはまだその事を知らない。その日は諸手《しょて》の持ち場持ち場からしきりに城中を砲撃し、城中からも平日よりははげしく応戦した。二十二日が来た。いよいよ諸口の官兵に砲撃中止の命令の伝えられる時が来た。朝の八時ごろには約束のように追手門の外へ「降参」としるした大旗の建つのを望んだともいう。
「い
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