けたものの方が、参った――と言い出すんです。まあ、どこから会津戦争のことなぞを覚えて来るんでしょう。あんなちいさな子供がですよ。」
十月も末に近くなって、毎年定例の恵比寿講《えびすこう》を祝うころになると、全く東北方面も平定し、従軍士卒の帰還を迎える日が来た。過ぐる閏《うるう》四月に、尾州の御隠居(徳川|慶勝《よしかつ》)が朝命をうけて甲信警備の部署を名古屋に定め、自ら千五百の兵を指揮して太田に出陣し、家老|千賀与八郎《ちがよはちろう》は先鋒《せんぽう》総括として北越に進軍した日から数えると、七か月にもなる。近国の諸侯で尾州藩に属し応援を命ぜられたのは、三河《みかわ》の八藩、遠江《とおとうみ》の四藩、駿河《するが》の三藩、美濃の八藩、信濃《しなの》の十一藩を数える。当時北越方面の形勢がいかに重大で、かつ危急を告げていたかは、これらの中国諸藩の動きを見てもおおよそ想像せられよう。
もはや、東山道軍と共に率先して戦地に赴《おもむ》いた山吹藩《やまぶきはん》の諸隊は伊那の谷に帰り、北越方面に出動した高遠《たかとお》、飯田《いいだ》二藩の諸隊も続々と帰国を急ぎつつあった。越後口から奥州路《おうしゅうじ》に進出し、六十里|越《ごえ》、八十里越のけわしい峠を越えて会津口にまで達したという従軍の諸隊は、九月二十二日の会津落城と共に解散命令が下ったとの話を残し、この戦争の激しかったことをも伝えて置いて、すでに幾組となく馬籠峠の上を西へと通り過ぎて行った。
この凱旋兵《がいせんへい》の通行は十一月の十日ごろまで続いた。時には五百人からの一組が三留野《みどの》方面から着いて、どっと一時に昼時分の馬籠の宿場にあふれた。ようやくそれらの混雑も沈まって行ったころには、かねて馬籠から戦地の方へ送り出した荒町の禰宜《ねぎ》松下千里も、遠く奥州路から無事に帰って来るとの知らせがある。その日には馬籠組頭としての笹屋《ささや》庄助も峠の上まで出迎えに行った。
「お富、早いものじゃないか。荒町の禰宜さまがもう帰って来るそうだよ。」
その言葉を残して置いて、伊之助は伏見屋の門口を出た。彼は従軍の禰宜を待ち受ける心からも、また会所勤めに通って行った。
連日の奔走にくたぶれて、会所に集まるものはいずれも膝《ひざ》をくずしながら、凱旋兵士のうわさや会津戦争の話で持ちきった。その日の昼過ぎになっても松下千里は見えそうもないので、家事にかこつけて疲れを休めに帰って行く宿役人もある。例の会所の店座敷にはひとりで気をもむ伊之助だけが残った。本陣付属の問屋場もにわかに閑散になって、到着荷物の順を争うがやがやとした声も沈まって行った時だ。隣宿|妻籠《つまご》からの二人の客がそこへ見えた。妻籠本陣の寿平次と、脇《わき》本陣の得右衛門《とくえもん》とだ。
「やれ、やれ、これでわたしたちも安心した。吉左衛門さんの病気もあの調子で行けば、まず峠を越したようなものです。」
そういう妻籠の連中の声を聞くと、伊之助はその店座敷の一隅《いちぐう》に客の席をつくるほど元気づいた。同じ宿駅の勤めに従いながら、寿平次らがすこしも疲れたらしい様子のないには、これにも彼は感心した。連日の疲労を休める暇もなく、本陣への病気見舞いに来て、今その帰りがけであるということも、彼をよろこばせた。
「まあ、座蒲団《ざぶとん》でも敷いてください。ここは会所で何もおかまいはできませんが、お茶でも一つ飲んで行ってください。」と言いながら、伊之助は手をたたいて、会所の小使いを呼んだ。熱い茶の用意を命じて置いて、吉左衛門のうわさに移った。
「なんと言っても、馬籠のお父《とっ》さん(吉左衛門のこと)にはねばり強いところがありますね。」と言い出すのは寿平次だ。
「そりゃ、寿平次さん、何十年となくこの街道の世話をして来た人で、からだの鍛えからして違いますさ。」と言うのは得右衛門だ。「どうもあの病人は、寝ていても宿場のことを心配する。ああ気をもんじゃえらい。自分の病気から、半蔵の勤めぶりにまで響くようじゃ申しわけがない、青山親子に怠りがあると言われてはまことに済まないなんて、吉左衛門さんはどこまでも吉左衛門さんらしい。」
「へえ、そんなお話が出ましたか。」と伊之助は二人の話を引き取った。「なにしろ、看護も届いたんです。あれで半蔵さんは七日か八日もろくに寝なかったでしょう。よくからだが続きましたよ。わたしはあの人を疲れさせないようにと思って、会所の事務なぞはなるべく自分で引き受けるようにしていましたが、そこへあの凱旋《がいせん》、凱旋でしょう。助郷《すけごう》の人馬は滞る。御剪紙《おきりがみ》は来る。まったく一時は目を回してしまいました。」
「いや、はや、今度の御通行には妻籠でも心配しましたよ。」と得右衛門は声を潜めながら、
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