い。」
「さあ、わたしにもよくわかりません。」
「何にしろ、これは古い物だ。それに絹地だ。まあ、気に入っても入らなくても、頂《いただ》いて置け。これも御恩返しの一つだ。」
「時に、お父さん、これはいくらに頂戴《ちょうだい》したものでしょう。」
「そうさな。これくらいは、はずまなけりゃなるまいね。」
 その時、金兵衛は皺《しわ》だらけな手をぐっと養子の前に突き出して、五本の指をひろげて見せた。
「五両。」
 とまた金兵衛は言って、町人|風情《ふぜい》の床の間には過ぎた物のようなその掛け軸の前にうやうやしくお辞儀一つして、それから寝床の方へ引きさがった。

       三

  雨のふるよな
  てっぽの玉のくる中に、
   とことんやれ、とんやれな。
  命も惜しまず先駆《さきがけ》するのも
  みんなおぬしのためゆえじゃ。
   とことんやれ、とんやれな。

  国をとるのも、人を殺すも、
  だれも本意じゃないけれど、
   とことんやれ、とんやれな。
  わしらがところの
  お国へ手向かいするゆえに。
   とことんやれ、とんやれな。

 馬籠《まごめ》の宿場の中央にある高札場の前あたりでは、諸国流行の唄《うた》のふしにつれて、調練のまねをする子供らの声が毎日のように起こった。
 その名を呼んで見るのもまだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の行宮《かりみや》西丸に着御《ちゃくぎょ》したもうたとの報知《しらせ》の届くころである。途中を気づかわれた静岡あたりの御通行には、徳川家が進んで駿河《するが》警備の事に当たったとの報知も来る。多くの東京市民は御酒頂戴《ごしゅちょうだい》ということに活気づき、山車《だし》まで引き出して新しい都の前途を祝福したと言い、おりもおりとて三、四千人からの諸藩の混成隊が会津戦争からそこへ引き揚げて来たとの報知もある。馬籠の宿場では、毎日のようにこれらの報知を受け取るばかりでなく、一度は生命の危篤を伝えられた本陣吉左衛門の病状が意外にもまた見直すようになったことまでが、なんとなく宿内の人気を引き立てた。
 ある日も、伊之助は伏見屋の店座敷にいて、周囲の事情にやや胸をなでおろしながら会所へ出るしたくをするところであった。彼は隣家の主人がまだ宿内を見回るまでには至るまいと考え、自分の力にできるだけのことをして、なるべくあの半蔵を休ませたいと考えた。その時、店座敷の格子の外へは、街道に戯れている子供らの声が近づいて来る。彼は聞くともなしにその無心な流行唄《はやりうた》を聞きながら、宿役人らしい袴《はかま》をつけていた。
 そこへお富が来た。お富は自分の家の子供らまでが戦《いくさ》ごっこに夢中になっていることを伊之助に話したあとで言った。
「でも、妙なものですね。ちょうどおとなのやるようなことを子供がやりますよ。梅屋の子供が長州、桝田屋《ますだや》の子供が薩摩《さつま》、それから出店《でみせ》(桝田屋分家)の子供が土佐とかで、みんな戦ごっこです。わたしが吾家《うち》の次郎に、お前は何になるんだいと聞いて見ましたら、あの子の言うことがいい。おれは尾州ですとさ。」
「へえ、次郎のやつは尾州かい。」
「えゝ、その尾州――ほんとに、子供はおかしなものですね。ところが、あなた、だれも会津になり手がない。」
 この「会津になり手がない」が伊之助を笑わせた。お富は言葉をついで、
「そこは子供じゃありませんか。次郎が蓬莱屋《ほうらいや》の子に、桃さ、お前は会津におなりと言っても、あの蓬莱屋の子は黙っていて、どうしても会津になろうとは言い出さない。桃さ、お前がなるなら、よい物を貸す、吾家《うち》のお父《とっ》さんに買ってもらった大事な木の太刀《たち》を貸す、きょうも――あしたも――ずっと明後日《あさって》もあれを貸す、そう次郎が言いましたら、蓬莱屋の子はよっぽど借りたかったと見えて、うん、そんならおれは会津だ、としまいに言い出したそうです。会津になるものは討《う》たれるんだそうですからね。」
「よせ、そんな話は。おれは大げさなことはきらいだ。」
 ごくわずかの時の間に、伊之助はお富からこんな子供の話を聞かされた。彼は会所へ出かける前、ちょっと裏の酒蔵の方を見回りに行ったが、無心な幼いものの世界にまで激しい波の浸って来ていることを考えて見ただけでもハラハラした。でも、お富の言って見せたことが妙に気になって、天井の高い造酒場の内を一回りして来たあとで、今度は彼の方からたずねて見た。
「お富、子供の戦さごっこはどんなことをするんだえ。」
「そりゃ、あなた、だれも教えもしないのに、石垣《いしがき》の下なぞでわいわい騒いで、会津になるものを追い詰めて行くんですよ。いよいよ石垣のすみに動けなくなると、そこで戦さに負
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