いう報告が来るようになった。そこにひらけたものは、遠く涯《はて》も知らない鎖国時代の海ではなくて、もはや彼岸《ひがん》に渡ることのできる大洋である。木曾あたりにいて、想像する伊之助にとっても、これは多感な光景であった。
「や、これはよいお話だ。半蔵さんにも聞かせたい。」
と伊之助は言って見たが、あいにくと半蔵が会所に顔を見せない。この街道筋の混雑の中で、半蔵の父吉左衛門の病は重くなった。中津川から駕籠《かご》で医者を呼ぶの、組頭《くみがしら》の庄助《しょうすけ》を山口村へも走らせるのと、本陣の家では取り込んでいた。
二
一日として街道に事のない日もない。ともかくも一日の勤めを終わった。それが会所を片づけて立ち上がろうとするごとに伊之助の胸に浮かんで来ることであった。その二、三日、半蔵が病める父の枕《まくら》もとに付きッきりだと聞くことも、伊之助の心を重くした。彼はその様子を知るために、砂利《じゃり》で堅めた土間を通って、問屋場《といやば》の方をしまいかけている栄吉を見に行った。そこには|日〆帳《ひじめちょう》を閉じ、小高い台のところへ来て、その上に手をつき、叔父《おじ》(吉左衛門のこと)の病気を案じ顔な栄吉を見いだす。栄吉は羽目板《はめいた》の上の位置から、台の前の蹴込《けこ》みのところに立つ伊之助の顔をながめながら、長年中風を煩《わずら》っているあの叔父がここまで持ちこたえたことさえ不思議であると語っていた。
その足で、伊之助は本陣の母屋《もや》までちょっと見舞いを言い入れに行った。半蔵夫婦をはじめ、お粂《くめ》や宗太まで、いずれも裏二階の方と見えて、広い囲炉裏ばたもひっそりとしている。そこにはまた、あかあかと燃え上がる松薪《まつまき》の火を前にして、母屋を預かり顔に腕組みしている清助を見いだす。
清助は言った。
「伊之助さま、ここの旦那《だんな》はもう三晩も四晩も眠りません。おれには神霊《みたま》さまがついてる、神霊さまがこのおれを護《まも》っていてくださるから心配するな、ナニ、三晩や四晩ぐらい起きていたっておれはちっともねむくない――そういうことを言われるんですよ。大旦那の病気もですが、あれじゃ看護するものがたまりません。わたしは半蔵さまの方を心配してるところです。」
それを聞くと、伊之助は病人を疲れさせることを恐れて、裏の隠居所までは見に行かなかった。極度に老衰した吉左衛門の容体、中風患者のこととて冷水で頭部を冷やしたり温石で足部を温《あたた》めたりするほかに思わしい薬もないという清助の話を聞くだけにとどめて、やがて彼は本陣の表門を出た。
伊之助ももはや三十五歳の男ざかりになる。半蔵より三つ年下である。そんなに年齢《とし》の近いことが半蔵に対して特別の親しみを覚えさせるばかりでなく、きげんの取りにくい養父金兵衛に仕えて来た彼は半蔵が継母のおまんに仕えて来たことにもひそかな思いやりを寄せていた。二人《ふたり》はかつて吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられた日に、同じく木曾福島の代官所からの剪紙《きりがみ》(召喚状)を受け、一方は本陣問屋庄屋三役青山吉左衛門|忰《せがれ》、一方は年寄兼問屋後見役小竹金兵衛忰として、付き添い二人、宿方|惣代《そうだい》二人同道の上で、跡役《あとやく》を命ぜられて来たあれ以来の間柄である。
しかし、伊之助もいつまで旧《もと》の伊之助ではない。次第に彼は隣人と自分との相違を感ずるような人である。いかに父親思いの半蔵のこととは言え、あの吉左衛門発病の当時、たとい自己の寿命を一年縮めても父の健康に代えたいと言ってそれを祷《いの》るために御嶽参籠《おんたけさんろう》を思い立って行ったことから、今また不眠不休の看護、もう三晩も四晩も眠らないという話まで――彼伊之助には、心に驚かれることばかりであった。
「どうして半蔵さんはああだろう。」
本陣から上隣りの石垣《いしがき》の上に立つ造り酒屋の堅牢《けんろう》な住居《すまい》が、この伊之助の帰って行くのを待っていた。西は厚い白壁である。東南は街道に面したがっしりした格子である。暗い時代の嵐《あらし》から彼が逃げ込むようにするところも、その自分の家であった。
伏見屋では表格子の内を仕切って、一方を店座敷に、一方の入り口に近いところを板敷きにしてある。裏の酒蔵の方から番頭の運んで来る酒はその板敷きのところにたくわえてある。買いに来るものがあれば、桝《ます》ではかって売る。新酒揚げの日はすでに過ぎて、今は伏見屋でも書き入れの時を迎えていた。売り出した新酒の香気《かおり》は、伊之助が宿役人の袴《はかま》をぬいで前掛けにしめかえるところまで通って来ていた。
「お父《とっ》さんは。」
伊之助はそれを妻のお富にたずねた。隠居金兵衛も
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