に積まれて、深い山間《やまあい》の谿《たに》に響き渡るような鈴音と共に、それが幾頭となく半蔵らの帰って行く道に続いた。
岩田というところを通り過ぎて、半蔵らは本宿の東の入り口に近い街道の位置に出た。
半蔵は思い出したように、
「どうでしょう、伊之助さん、こんなところで言い出すのも変なものだが君にきいて見たいことがある。」
「半蔵さんがまた何か言い出す。君はときどき、出し抜けに物を言うような人ですね。」
「まあ、聞いてください。こんな一大変革の時にも頓着《とんちゃく》しないで、きょう食えるか食えないかを考えるのが本当か――それとも、御政治第一に考えて、どんな難儀をこらえても上のものと力をあわせて行くのが本当か――どっちが君は本当だと思いますかね。」
「そりゃ、どっちも本当でしょう。」
「でも、伊之助さん、これで百姓にもうすこし統制があってくれるとねえ。」
と半蔵は嘆息して、また歩き出した。そういう彼は一度ならず二度までも自分の期待を裏切られるような場合につき当たっても、日ごろから頼みに思う百姓の目ざめを信ずる心は失わなかった。およそ中庸の道を踏もうとする伊之助の考え方とも違って、筋道のないところに筋道のあるとするが彼の思う百姓の道であった。彼は自分の位置が本陣、問屋、庄屋の側にありながら、ずっと以前にもあの抗争の意気をもって起こった峠の牛方仲間を笑えなかったように、今また千百五十余人からのものが世の中建て直しもわきまえないようなむちゃをやり出しても、そのために彼ら名もない民の動きを笑えなかった。
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第六章
一
新帝東幸のおうわさがいよいよ事実となってあらわれて来たころは、その御通行筋に当たる東海道方面は言うまでもなく、木曾街道《きそかいどう》の宿々村々にいてそれを伝え聞く人民の間にまで和宮様《かずのみやさま》御降嫁の当時にもまさる深い感動をよび起こすようになった。
慶応四年もすでに明治元年と改められた。その年の九月が来て見ると、奥羽《おうう》の戦局もようやく終わりを告げつつある。またそれでも徳川方軍艦脱走の変報を伝え、人の心はびくびくしていて、毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのような時であった。
もはや江戸もない。これまで江戸と呼び来たったところも東京と改められている。今度の行幸《ぎょうこう》はその東京をさしての京都方の大きな動きである。これはよほどの決心なしに動かれる場合でもない。一方には京都市民の動揺があり、一方には静岡《しずおか》以東の御通行さえも懸念《けねん》せられる。途中に鳳輦《ほうれん》を押しとどめるものもあるやの流言もしきりに伝えられる。東山道方面にいて宿駅のことに従事するものはそれを聞いて、いずれも手に汗を握った。というは、あの和宮様御降嫁当時の彼らが忘れがたい経験はこの御通行の容易でないことを語るからであった。
東海道方面からあふれて来る旅人の混雑は、馬籠《まごめ》のような遠く離れた宿場をも静かにして置かない。年寄役で、問屋後見を兼ねている伏見屋の伊之助は例のように、宿役人一同を会所に集め、その混雑から街道を整理したり、木曾|下《しも》四か宿の相談にあずかったりしていた。七里役(飛脚)の置いて行く行幸のうわさなぞを持ち寄って、和宮様御降嫁当時のこの街道での大混雑に思い比べるのは桝田屋《ますだや》の小左衛門だ。助郷《すけごう》徴集の困難が思いやられると言い出すのは梅屋の五助だ。時を気づかう尾州の御隠居(慶勝《よしかつ》)が護衛の兵を引き連れ熱田《あつた》まで新帝をお出迎えしたとの話を持って来るのは、一番年の若い蓬莱屋《ほうらいや》の新助だ。そこへ問屋の九郎兵衛でも来て、肥《ふと》った大きなからだで、皆の間に割り込もうものなら、伊之助の周囲《まわり》は男のにおいでぷんぷんする。彼はそれらの人たちを相手に、東海道の方に動いて行く鳳輦を想像し、菊の御紋のついた深紅色の錦《にしき》の御旗《みはた》の続くさかんな行列を想像し、惣萌黄《そうもえぎ》の股引《ももひき》を着けた諸士に取り巻かれながらそれらの御旗を静かに翻し行く力士らの光景を想像した。彼はまた、外国の旋条銃《せんじょうじゅう》と日本の刀剣とで固めた護衛の武士の風俗ばかりでなく、軍帽、烏帽子《えぼし》、陣笠《じんがさ》、あるいは鉄兜《てつかぶと》なぞ、かぶり物だけでも新旧時代の入れまじったところは、さながら虹《にじ》のごとき色さまざまな光景をも想像し、この未曾有《みぞう》の行幸を拝する沿道人民の熱狂にまで、その想像を持って行った。
十月のはじめには、新帝はすでに東海道の新井《あらい》駅に御着《おんちゃく》、途中|潮見坂《しおみざか》というところでしばらく鳳輦を駐《と》めさせられ、初めて大洋を御覧になったと
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