九月の下旬から中津川の方へ遊びに行き、月がかわって馬籠に帰って来ると持病の痰《たん》が出て、そのまま隠宅へも戻《もど》らずに本家の二階に寝込んでいるからであった。伊之助にしても、お富にしても、二人は両養子である。隣家に病む吉左衛門よりも年長の七十二歳にもなる養父がいかに精力家だからとはいいながら、もうそう長いこともあるまいと言い合って、なんでもしたいことはさせるがいいとも言い合って、夫婦共に腫物《はれもの》にさわるようにしている。
ちょうどお富は夕飯のしたくにかかっていたが、台所の流しもとの方からまた用事ありげに夫のそばへ来た。見ると、夫は何か独語《ひとりごと》を言いながら、黒光りのする大黒柱《だいこくばしら》の前を往《い》ったり来たりしていた。
「もうすこし、あたりまえということが大切に思われてもいいがナ。」
「まあ、あなたは何を言っていらっしゃるんですかね。」
「いや、おれはお父《とっ》さんに対して言ってるんじゃない。今の世の中に対してそう言ってるんさ。」
この伊之助の言うことがお富を笑わせもし、あきれさせもした。何が「あたりまえ」で、何がそんな独語《ひとりごと》を言わせるのやら、彼女にはちんぷん、かんぷんであったからで。
その時、お富は峠の組頭が来て夫の留守中に置いて行った一幅の軸をそこへ取り出した。それは木曾福島の代官山村氏が御勝手仕法立《おかってしほうだて》の件で、お払い物として伊之助にも買い取ってもらいたいという旦那様愛蔵の掛け物の一つであった。あの平兵衛が福島の用人からの依頼を受けて、それを断わりきれずに、あちこちと周旋奔走しているという意味のものでもあった。
「へえ、平兵衛さんがこんなものを置いて行ったかい。」
「あの人もお払い物を頼まれて、中津川の方へ行って来るから、帰るまでこれを預かってくれ、旦那がお留守でも話のわかるようにしといてくれ、そう言って置いて行きましたよ。」
「平兵衛さんも世話好きさね。それにしても、あの山村様からこういう物が出るようになったか。まあ、お父《とっ》さんともあとで相談して見る。」
もともと養父金兵衛は木曾谷での分限者《ぶげんしゃ》に数えられた馬籠の桝田屋惣右衛門《ますだやそうえもん》父子の衣鉢《いはつ》を継いで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、山林には木の苗を植え、時には米の売買にもたずさわって来た人である。その年の福島の夏祭りの夜に非命の最期をとげた植松菖助《うえまつしょうすけ》なぞは御関所番《おせきしょばん》の重職ながらに膝《ひざ》をまげて、生前にはよく養父のところへ金子《きんす》の調達を頼みに来たものだ。その実力においては次第に福島の家中衆からもおそれられたが、しかし養父とても一町人である。結局、多くのひくい身分のものと同じように、長いものには巻かれることを子孫繁栄の道とあきらめて来た。天明《てんめい》六年度における山村家が六千六百余両の無尽の発起をはじめ、文久二年度に旦那様の七千両の無尽の発起、同じ四年度に岩村藩の殿様の三万両の無尽の発起など、それらの大口ものの調達を依頼されるごとに、伏見屋でも二百両、二百三十両と年賦で約束して来た御上金《おあげきん》のことを取り出すまでもなく、やれお勝手の不如意《ふにょい》だ、お家の大事だと言われるたびに、養父が尾州代官の山村氏に上納した金高だけでもよほどの額に上ろう。
伊之助はこの養父の妥協と屈伏とを見て来た。変革、変革の声で満たされている日が来たことは、町人としての彼を一層用心深くした。この大きな混乱の中に巻き込まれるというは、彼には恐ろしいことであった。いつでもそこから逃げ込むようにするところは、養父より譲られた屋根の下よりほかになかった。頼むは、忠、孝、正直、倹約、忍耐、それから足ることを知り分に安んぜよとの町人の教えよりほかになかった。
そういう彼は少年期から青年期のはじめへかけてを、学問、宗教、工芸、商業なぞの早く発達した隣国の美濃《みの》に送った人で、文字の嗜《たしな》みのない男でもない。日ごろ半蔵を感心させるほどの素直な歌を詠《よ》む。彼が開いて見る本の中には京大坂の町人の手に成った古版物や新版物の類もある。そういうものから彼が見つけて来たのは、平常な心をもつものの住む世界であった。彼は見るもの聞くものから揺られ通しに揺られていて、ほとほと彼の求めるような安らかさも、やさしさも、柔らかさも得られないとしている。彼は都会の町人が狭い路地なぞを選んで、そこに隠れ住むあのわびを愛する。また、あの細《ほそ》みを愛する。彼は養子らしいつつしみ深さから、自分の周囲にある人たちのことばかりでなく、みずから志士と許してこの街道を往来する同時代の人たちのあの度はずれた興奮を考えて見ることもある。驚かずにはい
前へ
次へ
全105ページ中75ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング