もある。正月と言えば餅《もち》をつきに来たり、松を立てたりするのも、あの仲間です。一つあの仲間を呼んで、様子を聞いて見ます。」
「まあ、京都の方の話もいろいろ伺いたいけれど。夜も短かし。」

       五

「お霜婆《しもばあ》」
「あい。」
「お前のとこの兼さに本陣の旦那《だんな》が用があるげなで。」
「あい。」
「そう言ってお前も言伝《ことづ》けておくれや。ついでに、桑さにも一緒に来るようにッて。頼むぞい。」
「あい。あい。」
 馬籠本陣の勝手口ではこんな言葉がかわされた。耳の遠いお霜婆さんは、下女から言われたことを引き受けて、もう何十年となく出入りする勝手口のところを出て行った。
 越後路の方へ行った七人の農兵も宰領付き添いで帰って来た朝だ。六十日の歩役を勤めた後、今度御用済みということで、残らず帰村を許された若者らは半蔵のところへも挨拶《あいさつ》に来た。ちょうどそこへ、兼吉、桑作の二人《ふたり》も顔を見せたので、入り口の土間は一時ごたごたした。
 半蔵も西から帰ったばかりだ。しかし彼は旅の疲れを休めているいとまもなかった。日ごろ出入りの二人の百姓を呼んで村方の様子を聞くまでは安心しなかった。
「兼吉も、桑作も、囲炉裏ばたの方へ上がってくれ。」
 と半蔵がいつもと同じ調子で言った。
 そこは火の気のない囲炉裏ばただ。平素なら兼吉、桑作共に土足で来て踏ン込《ご》むところであるが、その朝は手ぐいで足をはたいて、二人とも半蔵の前にかしこまった。もとより旧《ふる》い主従のような関係の間柄である。半蔵も物をきいて見るのに遠慮はいらない。留守中の村に不幸なものを出したのは彼の不行き届きからであって、その点は深く恥じ深く悲しむということから始めて、せめておおよその人数だけでも知って置きたい、言えるものなら言って見てもらいたい、そのことを彼は二人の前に切り出した。
「旦那、それはおれの口から言えん。」と兼吉が百姓らしい大きな手を額《ひたい》に当てた。「桑さも、おれも、この事件には同類じゃないが、もう火の消えたあとのようなものだで、これについては一切口外しないようにッて、村中の百姓一同でその申し合わせをしましたわい。」
「いや、そういうことなら、それでいい。おれも村からけが人は出したくない。」と半蔵が言った。「おれが心配するのは、これから先のことだ。こういう新しい時世に向かって来たら、お前たちだってうれしかろうに。あのお武家さまがこの街道へ来てむやみといばった時分のことを考えてごらん、百姓は末の考えもないものだなんて言われてさ、まるで腮《あご》で使う器械のように思われたことも考えてごらんな。お前たちは、刀に手をかけたお武家さまから、毎日追い回されてばかりいたじゃないか。御一新ということになって来た。ようやくこんなところへこぎつけた。それを考えたら、お前たちだってもうれしかろう。」
「そりゃ、うれしいどころじゃない。」
「そうか。お前たちもよろこんでいてくれるのか。」


 その時、半蔵には兼吉の答えることが自分の気持ちを迎えるように聞こえて、その「うれしいどころじゃない」もすこし物足りなかった。兼吉のそばに膝《ひざ》をかき合わせている桑作はまた、言葉もすくない。しかしこの二人は彼の家へ出入りする十三人の中でも指折りの百姓であった。そこで彼はこんな場合に話して置くつもりで、さらに言葉をつづけた。
「そんなら言うが、今は地方《じかた》のものが騒ぎ立てるような、そんな時世じゃないぞ、百姓も、町人も、ほんとに一致してかからなかったら、世の中はどうなろう。もっと皆が京都の政府を信じてくれたら、こんな一揆も起こるまいとおれは思うんだ。お前たちからも仲間のものによく話してくれ。」
「そのことはおれたちもよく話すわいなし。」と桑作が答える。
「だれだって、お前、饑《う》え死《じ》にはしたくない。」とまた半蔵が言い出した。「そんなら、そのように、いくらも訴える道はある。今度の政府はそれを聞こうと言ってるんじゃないか。尾州藩でも決して黙ってみちゃいない。ごらんな、馬籠の村のものが一同で嘆願して、去年なぞも上納の御年貢《おねんぐ》を半分にしてもらった。あんな凶年もめったにあるまいが、藩でも心配してくれて、御年貢をまけた上に、米で六十石を三回に分けてさげてよこした。あの時だって、お前、一度分の金が十七両に、米が十俵――それだけは村中の困ってるものに行き渡ったじゃないか。」
「それがです。」と兼吉は半蔵の言葉をさえぎった。「笹屋《ささや》の庄助さのように自分で作ってる農なら、まだいい。どんな時でもゆとりがあるで。水呑百姓《みずのみびゃくしょう》なんつものは、お前さま、そんなゆとりがあらすか。そりゃ、これからの世の中は商人《あきんど》はよからず。ほんとに百姓は
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